友人のシャーナが言っていた。
「結婚は恋愛とは別物よ。結婚とは覚悟を意味するのよ。(The marriage is nothing to do with falling in love, but all about commitment.)」と。
20世紀中期から現在に至るまで、先進国ではほとんどの人が大恋愛を経過して最終的に結婚に至るという夢物語の主人公になることを望んでいる。日本ではアラフォーやアラフィフの人でさえも、そんな情熱的な恋愛を夢見て婚活に励んでいるとか。それはあたかも、結婚式が夢のような恋愛のサミットで伴侶は永遠に王子様やお姫様のままで、その恋愛感情も永遠に続くと信じて疑わない錯覚なのだ。
だが当然現実は異なる。
結婚というのはどのような理由で誰と結婚しようともどの時代のどの文化においても難しいものなのだ。
とてつもなくなが~い「我慢大会」のようなものだ。
だから結婚とはつまり「どんなことがあっても一生連れ添う」という(ただの)覚悟に他ならない。「腹をくくる」ということ。
夢のような恋愛とは異なる。
そしてそれは(憧れている人には大変申し訳ないが)ここアメリカでも同じである。
けれども、アメリでは今でもこの「恋」という気持ちを非常に重要視する人が多い。
つまり「恋心」を継続させるためには、たくさんの犠牲を払うことをいとわない。
アメリカでは、「恋心」つまり胸が熱くなるような気持ちがなくなると、「もう冷めた」と言い、離婚となるケースも多々見られる。現在アメリカの離婚率は50%だが、年によって上がることもあるが下がることは今のところ見られない。わたしの職場でも分かっている限りで25%は離婚組だが、実際はもっといるかもしれない。
確かに、理想的には結婚式からお葬式まで伴侶がずっと好きで好きでたまらない、というのが理想だ。でもこういうケースは普通はあり得ない。
一生連れ添う覚悟があっても終局を迎えるケースは多く、その確固たる決断を常に新たにするために知恵を絞らないといけない。(離婚は経済を圧迫するし避けられるなら避けたほうが賢い)
だから、毎日伴侶と恋に陥る経験を「わざと」設定することも多い。
それは日常をいかに非日常化するかということを意味する。
要するに愛情表現豊かに振る舞わないといけない。
それは日本人妻からすると、大変「めんどうくさい」ことでもある。
例えば、手などつなぎたくなくとも、手をつなぐ、とか。
毎朝毎晩、挨拶がわりのキスをする、とか。
さりげなく抱きしめる、とか。
理由がなくとも妻に貢物をあげて不意をつかせる、とか。
相手のいいところを頻繁に褒める、とか。
例え心にも思ってなくとも、伴侶がどんなにセクシーで、世界で一番魅力的だと言う、とか。
つまり、
互いにアッと言わせるようなことをして
ドキッとさせ、
感動の瞬間というのを作らないといけない。
毎日「愛している」とかの蜜のような言葉を発するのも常識。
そういう努力を西洋人は喜んでする傾向がある。
やっぱり、あの数々の映画のシーンは実際に行われていることなのである(例外は常にありますが)。
美味しい夕食を準備したり、家を綺麗にするとか、子供の面倒をしっかり見て家庭を守るなどが、日本人妻の愛情表現かもしれないが、それでは足らないのだ。
日本で称賛される甲斐甲斐しく「ヌカ味噌臭い」良妻賢母はここでは誉め言葉にならない。
仕事ばかりしていて最終電車で帰宅し、妻に「亭主元気で留守がいい」なんて言われている夫も、ここでは全く評価されない。
妻はセクシーで魅力的で、知的で会話上手で、精神的に自立していること。夫は、社会的地位が高く、豪邸と豪華な調度品を妻にあげれるほどの経済力を持ち、お洒落が上手で色男で美男子が理想とされる。仕事を終えたら理由がなくとも薔薇の花束を抱え玄関に登場。そこで目をとろ~んとさせて妻に膝まずく。その足で台所に直行して夕食だっておまかせ!夕食時も素敵な会話で妻を飽きさせない。その後は音楽でダンス。ロマンチストで口調はソフト、マナーは紳士で乱暴さの微塵も見せない。週末だって家事に子育てに参加が当然。これくらいじゃあないと結婚を続けるのは困難だ。当然メタボなんて持ってのほか。(理想を生きようとする国民性の表れです。)
日本人のように「結婚はただの生活だ!」なんてロマンのないことを口走るのは許されないのです。
ここで結婚を続けるには、並々ならぬ努力を重ねないといけないのだ。
では
果たして
現実的にみて、
誰がこれを実行できるか?
だから離婚が多い。
(次回に続く)