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ミモザのアメリカ言いたい放題!

米国情勢下のダブルエコライフ

孤児の幸福の見つけ方とは

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(出典:https://levlalev.com/wp-content/uploads/2017/05/orphan-girl-crying.jpg

幸福は自分次第、つまり心持ち次第だとは、頭ではわかるけれど、

実際のところどんなに頑張っても幸せだと感じれない時もたくさんある。

努力が報われない時。

子供が反抗する時。

家庭や職場に問題がある時。

自分が病気の時。

家族が病気の時。

仕事を失った時。

つまり自分の人生がうまく行っていないと感じる時であり、

現状がこれからも続き、希望が持てないと感じる時に、人は不幸だと感じるのではないだろうか。

 

でも多分人生とはこういう風にできているのだと思う。

どこを探しても、理想的な人生を生きている人はいないと確信している。

たとえ外側はそう見えたとしても、そんな完全な人生は存在しないのではないだろうか。

 

だからまず最初にその現実を受け入れることが大切ではないかなあと思う。

ジタバタしてもどうしようもない時もあるのだから。

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私は、4歳の時に両親がいきなり亡くなってしまった。

その後引き取ってくれるような親戚は現れず、私は孤児と呼ばれる運命を歩むことになった。そのため、里親制度と養護施設というシステムの中で子供時代を過ごした。

まさにジタバタしてもどうしようもない状況だったのだ。

 

養護施設に入所してから自分の生活が学校の同級生とははるかに違うことがわかってきた。でも「普通の」子供たちがすごく羨ましいと思ったことはおそらくないと思う。ただ惨めさを時々は感じてはいた。

例えば「いつも同じ服を着ているね」などとからかわれたり、活動に必要なものを揃えるお金がなくて恥をかいたりはあった。環境が違うので同級生と話が合わなく違和感を感じたこともあった。どうやって自分の境遇を隠すか、といつも神経を尖らせていた。

あの当時の養護施設では、服や靴は年に二回支給されていた。子供の足はすぐ大きくなるので、通常履ける靴は一足しかなく、濡れるとおしまいで代わりがない。翌日も濡れたままの靴を学校に履いていくこともあった。食事以外は全部自分たちでした。職員の方々はそれなりに思いやりのある方がほとんどだったが、児童虐待は普通で、そこに愛というものが存在しているとは感じたことはなかった。それでも住むところがあり食べ物を与えてくれて学校にも通わせくれてありがたく思っていた。ただ精神的に辛かったのだと思う。

 

子供にとって「天涯孤独」という言葉は大変怖いもので、私はそんな境遇にあって、どうやって人生を切り開いていくか考えるだけでも圧倒されそうに感じていた。

だからひたすら希望を捨てないで生きていこうと自分に言い聞かせていた。それでも、不安に打ちのめされそうになったり、変えられない境遇に悔しくてよくメソメソと泣いていたものだ。

でもある日、泣き腫らした自分の顔を鏡で見て、そんな風にいつも泣いている自分に嫌気がさしたのだ。その日勇気を奮い起こして、ずっとこんな風に惨めなままで人生を終わりにしてはなるものか、と心に固く誓った。でもどうやって人生を変えていくのか。その方法は全くわからなかった。ただ決心だけをしたのだ。いつか必ず変えてみせる、と。それは根拠ゼロの子供っぽい希望でしかなかった。けれでも私には、この希望という極めて抽象的な言葉だけを頼りに生きていくしかなかった。

トンネルの先には光が見える、とよく言われるが、私のトンネルには光は見えなかった。だから想像上の光を見るふりをしたのである。つまり幻覚である。その幻覚がまさに私の希望だった。

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人は経験を積むためにこの世に生まれてきたわけだけれど、苦しみが全くない楽しく楽な経験だけの人生を望むならがっかりすることだらけだと思う。

確かにそのような楽な人生を一般的に人は「幸福な人生」と呼ぶけれど、まず有りえないのではないか。本当にそんな人がいるなら是非お目にかかりたいと思う。

 

幸福は自分の心持ち次第というのは確かに正しい考え方だけれども、現実は厳しい。

思うに、あるとすれば、その心持ちとはこういうことかもしれない。

つまり、希望を持つことであると思う。

希望さえあれば、辛い中にあっても小さな幸福感を見いだせる。希望さえあれば、せめて今日の一日は乗り越えられると思える。

だから、いつかどうにかなる!と自分にいいかせることによって、その一瞬の不幸感を軽くすることは可能かもしれない。

それが「心持ち」かもしれない。

 

幸福は自分自身の中にあるということは、自分の心の中にあるという意味。

だから幸せであるという心の気持ち、つまりそういう心持ちを心がけて日々を過ごせば明るく生きていけるように思う。

 

私は自分の置かれた境遇を受け入れるしかなく、その中でどうにか生き延びることだけが当初の目標だった。その後、そんな目標では到底幸せを感じることは不可能で、生き延びるどころか、その日だけの悲しみを通り抜けることさえも困難になってきてしまった。

だから、見えないけれど遠くに希望の光があることを想像してその光を見ながら前進するしかなかった。希望は幸福への入り口であると思う。

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希望があれば、今日の分の落胆や悲しみは乗り越えることが可能だと思います。

そして明日が来た時には、明日の分の試練を希望を持って乗り越えればいいのだと思います。

それが幸福感をもたらしてくれると思います。

 

たとえ食物に事欠くことがなくとも、

希望がなくては生きていくことはできないですよね。

 今日も希望を持って生きるぞ〜〜〜〜!

皆さんもね。

 

 

 

 

 

イラスト:MCL