昔から、この問いに対する答えを探し求めている人はとても多い。
でもそれを他のところに見つけている人も多い。
物質を追い求めたり、美味しいものを食べたり、旅に出たり、買い物をしたり、
これらのことは刺激を求めることが根本的な意味するところであり、エンターテイメント的な活動に近い。
つまり感覚を喜ばせるものなのだ。
感覚を喜ばせるもを「楽しみ」とも呼ぶ。
確かに「楽しみ」はいい気分になる。
一時的に。
そう、一時的にいい気分になるけどその気持ちは長続きはしない。
そのため、また他のものを買い、他の美味しいものを味わい、他の地に旅に出る。
それの繰り返しで人生が過ぎていく。
それを楽しく充実した人生と言う人もいる。
知識を得ることが人生の目的の人もいる。
出世や権力を握ることが人生の主な目的の人もいる。
しかし
たとえ楽しい人生を送っていても、
どんなにエリートコースを歩んでも
全ての人が歳をとる。
高い化粧品もあまり役に立たない。
薬も効かない。
骨も筋肉も衰える。
だから今までのようには行かない。
行きたいところにも行けなくなる。(トイレだって行けなくなる!)
買いたいものもなくなってくる。
やりたいこともできなくなってくる。
そして死が訪れる。
それで満足して死ねるならいいけれど、
こんな人生を虚しいと思う人は多い。
いろいろやってみたけれど、今思えば別にどうってことはなかったと思う人も多い。
歳を経ていくと、人のすることは虚しく、空っぽのことがほとんどであると思うことが多い。
だから人生の目的は一体なんなのかと問いたくなってくるのが普通だ。
人生の目的が知りたければ宗教を勉強されるといい。
宗教は哲学に似ている。実際、多くの主要な昨今の哲学と宗教は関連部分がかなり多い。
だからソクラテスはよくて仏陀やキリストはダメというのはおかしな話だ。
また経典や聖書を読まないうちから否定する事は自分の無知を知らしめているようなもの。
その中には人生に役に立つことや知りたいと思っている人生の目的が書かれていることが多い。そして人はどんな時代でも同じようなことを考え、同じようなことが起きていたことが容易にわかる。さらに古人の悟りは現代にも当てはまるような気がする。
例えば、
旧約聖書にはイスラエルの王であったソロモン王の言葉が記されている。その中の伝道の書という章には人の人生についてこんな言葉が記されている。
空の空、空の空、一切は空である。
日の下で人が老する全ての労苦はその身に何の益があるか。
世は去り、世は来る。
しかし地は永遠に変わらない。
日はいで、日は没し、
その出たところに急ぎ行く。
風は南に吹き、また転じて、北に向かい、
めぐりにめぐってまたそのめぐる所に帰る。
川は皆、海に流れ入る、しかし海は満ちることがない。
川はその出てきたところにまた帰っていく。
全てのことは人をうみ疲れさせる。
人はこれを言い尽くすことができない。
耳は聞くことに満足することができない。
先になされたことは後にもなされる。
日の下には新しいものはない。
見よ、これは新しいものだ」と言われるものがあるか、
それは我々の前にあった世世にすでにあったものである。
前の者のことは覚えられることがない。
また来たるべき者はこれを覚えることがない。
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私は・・・・・・知恵と知識を多く得た。
私は心を尽くし知恵を知り、また狂気と愚痴とを知ろうとしたが、これもまた風を捕まえるようなものであると悟った。
それは知恵が多ければ悩みが多く、
知恵を増すものは憂いを増すからである。
何世紀も前のソロモン王(紀元前1011年生)でさえ人生の意味を考えていた。
今の人と同じだ。しかし、ソロモン王は立派なことを言っていたけれど別に完璧な人物とか過ちを犯さなかったわけではない。ただ彼の言葉には時を超えた真実が隠されているように思える。
いつの世も人は同じことを知りたがるようだ。