今朝外に走りに行った。
お〜。春だ!
やっと来たんだ。
胸が踊り、一気に幸せな気持ちにさせられた。
でも
ニュースを見れば相変わらずコロナ事件のことばかりだ。
アメリカの店の棚からも商品が消えて行っている。↓
(ちなみに我が家は買い占めなど無関心。水は井戸水があるし、トイレッットペーパーも無くなっても他の方法があるんだから平気。えっ?それは何かって?ご想像にお任せします。)
ここアメリカでも感染者が増加する一方で一体どうなっているのだろうか。
春でしょ?
普通ウィルス菌というのは雨が降ったり温暖になって来ると死んでしまうものなのに、全くもっておかしい。
それならもしかしてこれはウィルス菌ではなくて細菌かもしれない。
それも今までに類を見ない強烈な細菌。
耳にした情報によると、ハーバード大学の研究者が中国政府と組んで生物兵器を開発し、中国本土でそれを拡散したという話だ。理由は人口が多すぎるから、とか。
ネットで検索が可能と聞いたので探してみたがまだ見つかっていない。
う〜ん。
なんとなく信じられるような信じられないような。
これってただの噂?
でも火のないところに煙は立たないというじゃない?
人類が始まってから多くの伝染病が流行った。今回が初めてではない。
でも多くの人が怖がっている。
かくいう私も実は感染者数と死亡者数を毎日確認している。
ここに行くと危険かも、感染して死ぬかも、と無意識的に考えているに違いない。
でも、
大体が、自分を含めみんな人生はずっと続くべきと思っているところに問題があるように感じる。
そういう風になにかに執着することが苦しみと悩みの始まりなのではないか。
これを仏教用語で「集諦(じったい)」と言う。
その意味は苦しみの原因は、物事に執着した煩悩にあるということを理解することが幸福へのステップだというのだ。
引き寄せの法則によれば願うことは叶うと言われているが、どんなに執着しても寿命に関しては人の力で変えることができない部分が多いのではないだろうか。
だからありのままの状態を受け入れることは大切なのだと思う。
明日はわからぬ命。長く生きればいいってもんでもない。どんな生き方をしたかの方が重要ではないだろうか。
このコロナの事件で、人の命のはかなさと生きる目的を再度考えさせられることになった。人はあんな小さな菌で死んでしまうのだ。どんなに偉業を成し遂げた人にも死はやってくる。この事実に意義を唱える人はいないだろう。
当然死は残された遺族には悲しみだが、逝ってしまった人々にとっては実は本当はそうでもないのかもしれない。なぜなら、死とは終わりではなく、単なる転換期でしかないからだ。死とはこの地上での人生の終わりではあっても永遠への別れではないのだ。
だから本当は悲しむようなことではないのかもしれない。
人生に不必要なものはたくさんあり、それらへの執着を捨てれば安らかに楽に生きられるのだ。その執着が煩悩で、煩悩が不幸の始まりだから。
感染者数が増えても死亡者数が増えても、ちょうど過去の伝染病のように、終止符が打たれる日が必ず来ることを信じている。
でももし夏になってもそうならなかったら、例の生物兵器の噂は本当だったことになる。
それこそもっと怖いのではないだろうか。