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ミモザのアメリカ言いたい放題!

米国情勢下のダブルエコライフ

裏庭のブドウ先生に教えてもらったこと

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裏庭のブドウ。手入れはいたって簡単。その名も「野放し手法」。干してある布団だがアメリカでは誰もしないはずだし未だかつで見たこともない。アメリカ人は飾りつけや見かけの美しさなどを異常に気にするが、実はそれほど「微生物学的」な清潔度を気にしてはいないようだ。理由は湿度が日本より低いことと大陸文化が該当する。


わがやの裏庭にはブドウの木がある。今年の春は長く雨も多かったので上出来の収穫だった。

ブドウというのはツルが長く連結しからみ合いながらコロニーを作っている。さながらブドウ社会とでも言えるかもしれない。

ブドウの木の果実は大きくなるにつれ、「どこか」にぶらさがらないと重力に耐えることができない。この「どこか」は頼れるものならなんでもよく、これを探しながら、おんぶにだっこで成長を遂げる。人間の成長と似ている。

人間も「おんぶにだっこ」で大きくなり、大人になっても周りと持ちつもたれず生きていく。決して一人ではない。独立独歩が大人の証拠であるかのように思われているが、実際は違う。実際全部自分でなんでも出来る人が果たしてどのくらいいるのであろうか?

嵐がやってくればブドウも揺れる。でも強いツルという社会のつながりに守られて決して枝から落ちることもない。ブドウは外側より、葉やツルでうっそうとした内部に身を潜めるように生っている。それは甘い果実を採ろうとする敵から身を守ろうとしているかのようだ。人の社会のツルも若い時には自由を奪う煩わしいもの、とみなされることもあるが、年齢を経ていくにしたがって、それが大切であると分かってくるのではないだろうか。

ブドウは一見全部類似して見えるが、実は一房ごとサイズも色もちょっとずつ違う。ブドウだって個性を出したいに違いない。でもブドウの遺伝子が決めた通りの個性で健やかに守られて育つ。太陽と水と肥料から栄養をもらい、やっと収穫時になり、始めてコロニーの外に出ることになる。その時には甘く素敵なブドウの果実となる。

人もそうだ。一人前になる前は、家庭という守りの中で育ち学んで行く。甘く立派なブドウの実になるための準備をしているのだ。

でも自分の子供たちを思うと、コロニーの中でのほほんと過ごしすぎたのか、一人前にならなかったような気がしてならない。

我が家の子供達の半数は、ツルは全部バッサバッサと切り捨てて、いきなりコロニーから飛び出していった。まだ未熟で完全に実っていないうちに。自分のルーツなど完全に捨てたようだ。

 

自分は「ブドウ」なんぞなりたくない!と叫んでいる。

何か他の「別物」になろうと必死にもがいている。

 

彼らの外の人生は大変そうである。 自分で全てを決めて誰にも頼らず人生を完全にコントロールしたいのだが、それがうまくできずフラストレーションが溜まっているのだろう。頑固で謙虚さに欠けると助けてくれる人もそうそういない。友人も「類は友を呼ぶ」系のみ。これじゃあ、にっちもさっちもいかない。耐えかねて助言でもあげようものなら怪訝な顔をされるので口をつぐんで黙っているしかない。

とは言っても、黙って影で見守ることの実にしんどいことよ。

だから、

「悩んでいるんじゃない!苦しんでいるんじゃない!彼らは学習中なのだ!」

と親は自分に言い聞かせている。

 

ブドウよ、ブドウ。いつまでも渋いと収穫はゼロだぞ〜。

あっという間にカチンカチンのレーズンになり地面に落とされるだけだぞ〜。

昔は「ブドウ」だったとは誰も思いもしないただの黒い班点になり忘れられた存在になるだけだぞ〜。

と、いいたいけど、どうせうちの「ブドウ」たちには馬耳東風に決まっている。たとえ耳に届いてもどうせうとまれるだけなのでやめておこう。

悪いけど人生の償いは自分でやってもらうしかない。

ツルを断ち切った「ブドウ」を今さら救ってあげることはできないのだ。悲しいけど。

それが自然の掟なのだ。

と、裏庭にお住いのブドウ先生に教えてもらった。

イラスト:MCL