ブラックフライデーも終わった。
といっても我が家はそんなものは完全に無視させていただいた。
こんなの ↓ 勘弁させていただきたい。
翌日の土曜日は、地元の大学(ミシガン大学)と夫の出身大学である宿敵オハイオ州立大とのフットボールの試合があった。今年もオハイオ州立大の勝ちだった。
このフットボール観戦は、他の試合の一般入場券は一人200ドル(2万円)だが、
この例年のオハイオ州立大学との試合は何と一人800ドル(8万円)もする。
なんかお金の無駄、
とそう思えて仕方ない。
(ちなみにミシガン大学のフットボールコーチの年収は、$8 million - 876,000,000円。
もしコーチの収入増加に貢献したかったら、是非どうぞ。)
観客は興奮し、観戦席で喧嘩を始めることもよくある。当然選手も試合前や最中にも喧嘩をする。紳士淑女の国日本では絶対にありえない。フットボールの試合中に人間の野蛮性が現れると言っても過言ではない。
試合が終わると、そのあとは勝った方はビールで乾杯。負けた方もビールで憂さ晴らし。なんとなく試合は二次的な目的で、ビールを飲むのが一番の目的に見える。
娘はミシガン大の学生だが実はオハイオ州立大病院で産まれており、どちらを応援していいかわからないので、どちらも応援しないことにしたらしい。部屋にこもって最後のプロジェクトに集中していたようだ。
この間わたしは、食材の買い出しと、いらないものを寄付するために街に出ることにした。でもこのフットボール熱で賑わい、どこにも駐車場が見つからない!
いつも感謝祭の後にこの例年の試合があるとは分かっているのだが、すっかり忘れていたのだ。
はっきり言って、
ブラックフライデーだろうが、フットボールだろうが、
うちの家族にはどうでもいいことなのだ。
わたし達家族は、
おそらく
世の中とは反対の方向に向かっているのだと思う。
世の中で流行っていることやエンタメにほぼ興味がない。
歳をとったからだろうか?
流行は移り変わるものでそれに振り回されているのが消費者だ。
人生の主人公はその個人であると誰もが分かっているはずなのだが、
実は社会や周りに操られているように見受けられる。
そう。マリオネットのように。
人は人生の舞台で踊っているのは自分の意志で、自分が主体的に生きていると錯覚を覚えているのだ。
本当は踊らされているだけなのに。
わたしは
家族が健康であって生活できる収入があり
子供達がしっかり自立してくれれば、他に望むことはない。
どこそこの美味しいレストランで食事をする、とかそう言うことにも興味がない。
そういうことを幸せという人が沢山いるというのは知っている。
わたしも若い時は結構やったことがある。
そういうことを「楽しい!!」と感じていた。
この「楽しい」が「幸せ」だと勘違いしていた。
だから、しばらくすると、虚しさを覚えるようになってきたのだ。
英語では、幸福をhappinessといい、
楽しみをenjoymentという。
この二つは似ているようで微妙に違う。
幸せとは、もっとなんでもないようなシンプルなところにあるように感じる。
可愛い赤ちゃんの笑顔とか、さりげない親切とか、暖炉の火が燃える音とか、静かにお茶をすする時間、とか。
そして、何よりも、
誰かの役に立てた時が、最も幸せだと感じられる。
自分がこの世に生きていることが誰かの幸福に繋がるなら、それが人生に深い意味をもたらし、幸せな気持ちになれるのだ。
そんなものが心のより深い部分を満たしてくれるように感じている。
反対に華やかでやかましく奇をてらうものには持続する本当の意味での幸福はないと思う。
多くの場合、これは平凡で退屈な日常から抜け出すための「逃げ」としか思えない。
でも「逃げ」も時々必要かもしれない。
実際にこの「逃げ」をいつも実践している人が存在することも事実だ。
それは意義ある人生と言えるのだろうか。
確かに何に価値を置くかによってどこに時間とお金を使うかが変わる。
もちろんそれはその人次第だが、あくまでも主体的でないといけないように感じる。
それに意味合いがあれば尚いい。
だからわたしに欲しいものは何もない。
もっとも大切なものを見つけたから
何も他にはいらないのだ。