日本が誇るオーガニゼーショナル・エキスパートで有名な近藤麻里江氏のコンマリメソッドがアメリカに上陸したのは2014年で、かれこれもう6年になろうとしている。
そしてその人気度は上がる一方で下がるところを知らない。
では何故そんなに人気があるのか見てみよう。
アメリカでコンマリメソッドに興味があり実施を試みる人にはある特定のタイプがある。
英語圏で極度の溜めこみ症候群の人を”hoarders”と呼ぶ。「汚部屋」や「汚屋敷」の住人が日本のそれに当たるかもしれない。
でもコンマリ信奉者はこのような類には属してはいない。
主に白人中流層に大変人気がある。
要するに物が家中に溢れかえるほど買い物ができる経済力があり、その物のスペースを確保できるアメリカサイズの家がある人が多い。また物の品質は中から上。だから処分に頭を悩ませている類だ。
当然ぼろを捨てるのは簡単だが、高級品は難しい。
もちろん狭いアパート暮らしの人もいるが、狭いところに住んでいれば置ける物の量も限られてきてそんなに物が溜まっているわけではない。だから中流が多い。
世界一の消費社会で、世界二位のゴミの量を誇るのは他でもないアメリカだ。とにかく買い物ばかりしているというのが私が見たアメリカ社会の姿だ。
ここにコンマリメソッドが上陸したのはまさに打ってつけであった。需要と供給が見事に合致したため爆発的人気を得る事になり、結果的にアメリカ大陸を走破してしまったのだ。そして彼女は押しも押されもせぬ時の人となった。
コンマリメソッド信奉者はもともとが片づけ自体に興味の高い人が多い。
既に片付けに気を遣うタイプでより自己の手法を洗練化させたい人がマジョリティのように見える。
もう一つのグループは物に支配されている自己の生活や環境をどうにかしたいと常々思ってきた人々だ。でも彼らには改善のための教科書といえるようなものがなかった。
過去にあった一般的なガイドブックはみな、どんな入れ物にどのように保管してどこにしまうか、のような手ほどきであった。
処分に当たっての判断基準を唱えるグルは近藤氏が初めてだったのだ。
わたしは「人生がときめく片付けの魔法」の英語版Life-Changing Magic of Tidy Upをちらっと本屋で立ち読みしただけだがあとはインターネットでその奥義たるものに触れさせていただいた。
大変興味を引いたので早速実践!となった。
その結果・・・たるや?
洋服のたたみ方やクローゼットの整理の仕方はなかなか面白いと思った。
実際整然としたタンスやクローゼットを開けるたびに不思議と感じる静かな幸福感がなんとも居心地がよい。
問題は物の処分の仕方だ。
何がユニークで過去にないオリジナルコンセプトかというと、
「ときめくものを大切に使う」「ときめかないものは処分」という点だ。
勧めに従って、実際手に取りどんな気持ちがするか自分の心に問うことにした。
で、なんとなんと!
「胸がときめく」経験は
見事ゼロだった。
ガーン!
要するに何にもときめかないのである。
それを発見して正直言ってショックであった。
自分は何と無関心で無感動な人間なのか?
もしかして冷たい心の持ち主なのかもしれない。
ところで、この「ときめき」は英語訳だと、"Spark joy"という。
実はこの「ときめき」または「Joy」というのはかなりやっかいな代物なのだ。
この「ときめき」とやらは一体全体なんであるのか?
近藤氏によると、「胸がキューン」とする感じらしい。
「心臓がドキドキ」する感じ?
「心がウキウキする」ということか?
ウキウキなどしない。キューンもない。
恋人に会う時のように胸の中に蝶が飛ぶ感じ?
それもない
Joy というのは胸の奥で感じる深い喜びのような意味だ。
楽しいとは異なる。
自分の家の「モノ」を手に取り深い喜びは全く沸いてこない。
ただ「わりと素敵」か「どちらかというと似合うからキープ」くらいの気持ちが少しは沸いたかもしれない。と言っても別になくなっても悲しくもなんともない。
それじゃあ、自分が無感動な人間なのかと問いただしてみるとそうでもないと思える。
数年前にワシントンDCの国立西洋美術館で壮大な油絵を見たときは感動した。
John Singleton Copleyや Benjamin WestやCharles Willson Pealeの絵が心に迫ってきたのだ。
でもその感動とは「ウキウキ」ではない。
「キューン」でもない。
「ときめく」とかそういうレベルの感動ではなかった。
美術史の教科書で見た作品は「なんだ、タダの風景画と肖像画」という感想だったが、それを目の前で見たときの気持ちはただただ感動であった。
言葉を失うというのはこういうことをいうのだ。
わたしは、美術は感性に語りかけるように思う。
反対に音楽は魂の深いところに語りかけるように感じる。
だから音楽は心に浸透し人は涙することも容易にあるのだ。
コンマリの「ときめき」というのはそのたぐいとは違う。
だから服飾品などに感動はしない。私のワードロープは、コーデイネートしやすい色とスタイルでまとめている。だから面白い服も変わった服もない。
商業美術の一つだし、コモディティである。
もっとも、このような実用的なものに感動を覚えることはなくても、面白みとか、ちょっとだけの「素敵」という気持ちを感じることはある。
例外は本くらいかもしれない。本は内容が一番。役に立ったとか自分の考え方を変えてくれた、とか、美しい話だったとかはある。それはときめきのうちに入るのだろうか?
だから私の心は「ほぼ」ときめかない。
実用的なものにはほぼ何も感動することはない。
うちのプリンターにもときめかない。
机、テーブル、文房具、カーペット、皿にもカップにもときめかない。
調度品ですらときめかない。
でもうちのニャンタにはときめく。
それはニャンタは生きているから。
愛しているから。
生きていて心のある対象にはときめく。
自然にも心を潤わされるようなときめきがある。
それは自然も生きているから。
生きているものには心に語りかけるものがあるのだ。
こういうものに比べると自分のいつも使っているコモディティに感じるものはゼロに等しい。
音楽自体はバイブレーションで体に迫ってくるエネルギーが強い。
だから感動する。
ときめくこともある。
モノはモノでも母が作ってくれたセーターには愛を感じる。
自分が知っている人が心を込めて作ってくれたものにはたとえ「モノ」でも幸せな気持ちを感じるものだ。
それでは大量生産で作られたものの価値は何であろうか?
どのくらいの愛着を持てるのだろうか。
コンマリメソッドは心がときめくものに囲まれて暮らすと幸せな気分になれるのというコンセプトだ。
でも自分を最も幸せにしてくれるものは、そういう「モノ」じゃあないと思う。
好きなものに囲まれて暮らしていると幸せになれるというが、
そういうものに別れを告げないといけない日がいずれ全ての人にやってくるのだ。
それならもし「モノ」に焦点を当てた人生ならその時には幸せは無くなるということだ。
結局全てはチリとなり消えていくものだ。
ぼろを身に着け、欠けたお椀で侘しい食事をという意味ではない。
生活のシンプル化は大切であると思うし、無駄なものを持たないという考えも賛成だ。
ただ、モノにそこまで真剣にならなくとも、とも思えてくる。
それに所詮「モノ」はただの「モノ」でしかない。
そんな「モノ」にそこまでこだわることが馬鹿らしくさえ思えてくる。
まず一つ一つ手に取ってというのも面倒だと気付いた。
こんなのやっている暇はない。
なぜなら、わたしは毎日仕事に行かないといけないのだから。
一日中家にいてお片付けをしていられる余裕などないのだ!!!
それに、片づけをしないといけないのは引き出しの中だけではない!
1エーカーもある敷地には草が生え放題だし。
夫がサンルームを建設中なのでそこら中に道具やら木材やらワラやらが無秩序に散らばっているし。
車庫もどんなに片づけても乱雑遺伝子の夫がめちゃくちゃにしてくれるし。
夫の工房は常に竜巻が訪れた直後のようだし。
台所は常に片づけが必要な場所だし。
自分の所有物全てに対して「ときめくかしら?」
なんて
やってられないのだ。
では自分のような日用品とか装飾品とかに心ときめかない人はどうやって物の取捨選択をすればいいのか。
そういう人は、左脳で必需品を選べばよいのである。理論的に決断すればいいのだ。そっちの方がよっぽどシンプルだと思えてならない。
だからわたしは、コンマリメソッドの好きな所だけを取り入れてあとはバッサバッサと切り捨てることにした。
グルという人物の薦めをうのみにするのではなく自分に向くことだけを選択することが、主体的に生きることを意味し、実は最もシンプルであるのではないだろうか。
でも人によってはグルの言うなりになって取捨選択が無い方がシンプルで楽だ!というかもしれない。それは他でもなく自分で責任を取らなくて済むからである。自分のやり方でやる、というのはリスクが伴い危険でさえある。
確かに。
こういう目立たず周りと歩調も語調も合わせる平和な生き方を「長いものには巻かれろ」主義と言うらしい。
これは日本人特有の国民性であるように伺える。狭い国土に肩をすり合わせながら生きていくための生きる術として何百年もかけて培われてきた気風ではないか。
それは必ずしも欠点ではなく長所でもある。それが極めて日本という国を日本たらしめたる要因なのではないか。それとは反対に自己主張と多様性を重んじるアメリカ文化は常に対立と緊張感が絶えず平和からは程遠い。
ただ、そういう「長いものには巻かれろ」的な生き方をするとやっぱり社会で流行ってことに振り回される人生になるんだなあと思う。到底わたしには不可能な道だが、そうしたい人の気持ちも容易に分からないでもない。