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ミモザのアメリカ言いたい放題!

米国情勢下のダブルエコライフ

自給自足④の巻:自家製リンゴチップス

採ったリンゴで自家製リンゴチップスを作ることにした。

そして

待つこと24時間。

リンゴは乾燥器でショボショボになった。

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出来上がり!

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フタを開けると、最初の段はこんな感じ。

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アップでどうぞ。

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五つのレイヤーをバラバラにするとこんな感じ。

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ボールに入れて、さあ召し上がれ。

 

このボールに入っているリンゴはとりわけ艶やかなわけでもなく(まさに近い未来の自分の皮膚)、ましては高価でもない。

でも、見ていると不思議と満たされた気持ちになれる。

何故だろうか。

このリンゴの中に詰まっている栄養やエネルギーがそれを食する人を滋養してくれると感じるからであろうか。縮んだリンゴの一片一片が何故かとても愛おしく見える。

 

リンゴから慈恵と愛がほとばしっていると感じる。

この愛の源は”Mother Earth”。

その名の如く母なる大地を指す。

母なる大地はそこに生する全てのものの命を自己犠牲という愛により支えている。

創造し育む存在そのものではないか。

 

「人生における無上の幸福は、自分が愛されているという確信である。」

と、かつての文豪であり政治家のビクトル・ユーゴーが語ったように、

自然と人間が融合することにより、人はその大いなる自然に愛されていると感じるのではないか。

たとえ全ての人間社会がその人を裏切ろうとも冷たくしようとも、自然は常に人と共にあり、人には到底理解のできない優しく時には厳しい包容力をもって無限の仁慈を示してくれているのだ。

それはまさに全生物に共通である母性愛と等しいと言っても過言ではないかもしれない。

 

化学構造的見地に基づくならば、人の本質は自然とあまり変わりがあるわけではない。全存在物の構造物質を一番小さな微粒子まで掘り下げていくと、そのように断言できる。

確かに、人も動物も植物も母なる大地から出で、いずれは同じところに帰っていくエンテイテイだ。これは人を含んだ全ての生命体は自然とは別物ではなく、まさに自然の、および大地の一部であることを象徴している。

だからその中で生きることが最も自然体で本来のあるべき姿であるのではないだろうか。

 

人は先端科学技術を駆使して多くの便利な道具を発明してきた。それは常に移り変わり更に便利なものが発明されることになり、結果的に人の生活に役立ってきたことは疑いの余地がない。

そして忘れてはならないのは、これらは全て幸福の追求から産まれた産物であるということだ。

幸せになりたいがために万人が追い求め、最新の発明品が最も大切であるかのような錯覚さえ覚えるようになってきた。

 

それなら果たして

人生は楽になっただろうか?

喜びで一杯になったのだろうか?

より幸福になったのだろうか?

 

本当に最も大切なものは、最も意義あるものとは、他の所にあるような気がしてならない。

では、それは何であるか。

もしかすると、人と一番近い存在である自然の中に答えを見つけられるかもしれない。

自給自足③の巻:リンゴ狩りも色々ある

先週の金曜と土曜は気温が下落し、曇りがちで雨にも見舞われた。

最高気温は摂氏14度で最低気温が6度と、日に日に冬へ向かっていると感じられた。

翌朝は摂氏11度で、ついにこの秋初めて暖炉に火が灯った。

だが、昼には気温が上昇し(摂氏20度)、気持ちのいいくらい秋晴れの空と変わった。

 

通常わたしたち家族は日曜日に外に出て肉体労働に従事したりはしない。

だが、自然は人間の都合など待ってはくれない。

よってこの日、裏庭のリンゴを収穫することにした。

ところが!

あ~すでに遅し!

 

リンゴの実は寂しいくらいの数だった。

がっくり。

どうも庭にやってくる野生の動物に先を超されたようだ。

特に低木にはリンゴがほとんどなくなっていた。

残りは、なんとたったの3個だけ!

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これだけ????

野生の世界は厳しい。

生き伸びることに必死な動物たちは、実が熟するまでリンゴの木をしっかり見張っていたらしい。そしていよいよ食べごろになった頃に、一気に実に跳びつき、さっさと巣に運んでいったに違いない。次はいつこんな美味しい餌にありつけるは分からない。採れるうちに行動に起こした彼らの勝利だ。その反対に、生ぬるい文明にどっぷりと浸かりすっかり無精者となった人間は動物より知性が高いように巷では言われているが、それは嘘である。本当の意味で知恵があるのは動物の方であろう。

 

だから、忙しさにかまけていた人間がビリだったのだ。

 

よって我々には野放し状態で枝が伸びすぎたリンゴの木しか残されていなかった。

あれって本当ににンゴの木?

似ても似つかない姿よね。

でも、折角だから、採ってみるか!

でもだれが?

 

木登りの得意だった申年の息子は他州の大学に行っていてお願いできない。

娘にも登れるような身軽さはもうない。

地下の住民(次男と嫁)の体重では木が折れる確率の方が高そうだ。

残りは夫もしくは自分?

しかしこの組み合わせは最も危険!

上に到達する以前に必ずや真っ逆さまに落ちることだろう。

そうなったらリンゴどころではない。

「青天のへきれき」などどうでもよくなる。

 

 じゃあ、うちのニャンタはどう?

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手伝ってあげたいのはヤマヤマだけど眠たくて目が開けれないの。だから今は無理。でも後も無理。高いところが怖いんだもん。

(猿を飼っていたらよかった・・・。)

 

どうも他に選択肢はなさそうなので、ちょっとどころかかなりおぼつかないが、

我々が腹を括るしかない!

 

 さて、どうやってあんな高い所にあるリンゴを採るか。それが問題だ。

そこで「DIYいのち!」の夫がリンゴ採り器なる代物を作ってくれることになった。

牛乳の空きケースの脇に穴をくりぬき、そこにリンゴの実をひっかけて採るというカラクリで、高い所に届くように長い棒を先に取り付ける。

 

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竿を肩にいざゆかん!後ろが育ちすぎたリンゴの木。


へえ~面白そう。

だが、これがなかなか難しい。

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竿がめちゃくちゃ重〜い!!!

ああ、これを採ろう!

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採れると信じて疑わないわたしたち。

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これも採る?でも随分と高いところにあるけど〜。平気かな?

でもやってみるとなかなか難しい。

なので助っ人を呼ぶことにした。

娘よ、お願いじゃ。

もし心があるならば、

その若くエネルギーみなぎる腕で精根尽き果てた親を助けておくれ!

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よし、チームワークで頑張るしかない!

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採れそうで採れない!

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肩が痛い!


ひえ〜。えらい重労働!

思ったよりたいへん!

汗だくだく。

 

お~採れた!!!!

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どうだ!涙の収穫!

かわいい!

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おおー。なんかちょっと見栄えが悪いけど、オーガニックだからこんなもの。

 

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バケツの中のリンゴたち。まだいくつも木に残っていたけど、疲労困憊でさっさと諦めることにした。よって残りは(快く)リスにでも差し上げることにしよう。

 

努力の甲斐なく大した数は採れなかった。

それにー。

オーガニックだから姿形がいまいちだな~。

結構虫に食われているなあ~。

でもリンゴはリンゴ。

 

わずかな収穫だがおもわず自然の恵みに胸が膨らんだ。

ふと思った。

こんなシンプルな活動だけどとてつもなく楽しい、と。

 

店に行って買い物をすることもいいけれど、

そこでは得ることのできない心の充足感がある。

リンゴを採ることは自然との対話だ。

実をつけてくれたリンゴの木に感謝。

採らせてくれて感謝。

実を養ってくれたこの地に感謝。

そして枝の間に顔をのぞかせている太陽の光に感謝。

見かけも機能もイマイチだったが、リンゴ採り器なるものを作ってくれた

心遣い一杯の夫にも感謝。

なんかとっても幸せ。

やっぱり。

本当の幸せはなんでもないような小さなもののなかに、そして出来事の中にあるのだ。

 と思う。

 

アントニー・デ・メロ師もこのような事を語っていた。

「今この瞬間にあなたが無常の喜び(幸せ)を感じていないとしたら、理由は一つしかない。
自分が持っていないもののことを考えているからだ。
喜び(幸せ)を感じられるものは、全てあなたの手の中にあるというのに。」


決して華やかではない。

肉眼では見えない

なんてことのないような日常という宝物箱の中に

ささやかな幸せが眠っているんだ。

 

この日も自然という偉大な教師から金言を頂戴仕り、明日を生きる糧となった気がする。

 

 

自給自足②の巻:素人のシソ茶作りーチャレンジ!

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家の前のシソ。

わが家の庭にはシソとペパーミントがところ構わず生えている。

 

引っ越してきた時にはペパーミントだけだったのが、鳥が種を運んできたのか、いつの間にかシソも生えるようになってきた。

アメリカでは普通こういうのは雑草とみなされ、危険な除草剤をかけられ命を奪われる運命だ。

だからアメリカの庭というのはプラスチックのようにスムーズでうるわしい。

でもわたしたちのような変人は、プスチックのような庭なんて考えられない。

除草剤などもってのほか!

 

だって、これは何といっても天からの恵みですよ!

だから感謝していただくのが当然ってもんじゃあないですか?

 

最初は、ほんの少しだったので庭に出て葉っぱを取り料理に活用していた。

だが、年を経るに従って、いつのまにか玄関の周りのエリアを完全に占領するようになってしまった。

 

ひえ〜。

これじゃあ食べきれないじゃあないの・・・。

 

で、すごいアイデアが浮かんだ。

お茶を作るのだ!

 

 え?

お茶ってその道のプロじゃあなくても作れるものなの???

 

もっちろん!

なんてね。でもできないことはない!

失敗してもいいのだ。チャレンジすることが大切なのだから。

 

1。まずは、裏庭にシソを取りに行こう!

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2。健康そうでフレッシュなシソをバシバシ根っこから抜いていく(100本はかたい!)。

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3。ホースでジャージャーと洗って綺麗にする。

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4。外のロープにシソを一本づつ洗濯ばさみで止め乾燥させる。

空が曇ってきたら、家の中に移し乾かす。

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5。最近のお茶はほとんどが機械による製造方法だが、

自家製なので伝統的な手法で「手もみ茶」を作る。

正しいやり方が何やらあるらしい・・けど、

面倒くさがり屋は無論「てきとう手法」に決まっている。

 

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6。最後に瓶に入れて圧縮器で瓶の中の空気を抜く。

またテイーバッグにも入れる。(ニャンタもシソが好物!)

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コメント:上のイラストでは瓶が6本しかないけれど、実際はこれの倍はありますのであしからず。

 

ご存知の方も多くおられるかと思うが、シソは昔から発汗、解熱、鎮痛、鎮静、解毒剤として使われてきたものだ。

他の薬効はというと。

  1. 胃腸:胃液の分泌をうながし、食欲を増進させたり胃を丈夫にする作用がある。また強い防腐作用を持つため、食中毒の予防にも役立つ。
  1. 老化防止、免疫力強化、虫歯。高血圧。
  2. アレルギー:シソに含まれるαリノレン酸は、アトピー性皮膚炎や花粉症などのアレルギー症状を緩和すると言われている。
  3. がん:青ジソに豊富なbカロチンは、体内でビタミンAに変わり、粘膜や皮膚を保護し抵抗力を強くする。また抗酸化作用もあり、がん予防の効果が期待できる。同じくたくさん含まれるビタミンCやオメガファテイアシッドがガン予防に効く。
  4. うつシソは精神安定作用のあるカルシウムが多いので、うつにも効く。

実は以前にこのシソをテイーバッグに詰めて、ファーマーズマーケットで売りに出していたことがあるが、一人の女性が毎回全部買い占めていた思い出がある。

理由は、高血圧の夫にシソ茶を一ヶ月ほど毎日飲ませたところ、血圧がかなり下がったということだった。

ということでこれは高血圧にも効くのです!

なので、もし読者の皆さんの庭にシソが生えていたら、どうぞサラダに入れるなり、天ぷらにするなり、お茶にするなり、どんどん活用されることを是非お勧めします。

 

コンマリメソッドにもの申す- ときめかない人はどうするか?

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超美しいコンマリ式引き出しの中。(出典:rabitlife.jugem.jp)

日本が誇るオーガニゼーショナル・エキスパートで有名な近藤麻里江氏のコンマリメソッドがアメリカに上陸したのは2014年で、かれこれもう6年になろうとしている。

そしてその人気度は上がる一方で下がるところを知らない。

では何故そんなに人気があるのか見てみよう。

 

アメリカでコンマリメソッドに興味があり実施を試みる人にはある特定のタイプがある。

英語圏で極度の溜めこみ症候群の人を”hoarders”と呼ぶ。「汚部屋」や「汚屋敷」の住人が日本のそれに当たるかもしれない。

でもコンマリ信奉者はこのような類には属してはいない。

 

主に白人中流層に大変人気がある。

要するに物が家中に溢れかえるほど買い物ができる経済力があり、その物のスペースを確保できるアメリカサイズの家がある人が多い。また物の品質は中から上。だから処分に頭を悩ませている類だ。

当然ぼろを捨てるのは簡単だが、高級品は難しい。

もちろん狭いアパート暮らしの人もいるが、狭いところに住んでいれば置ける物の量も限られてきてそんなに物が溜まっているわけではない。だから中流が多い。

世界一の消費社会で、世界二位のゴミの量を誇るのは他でもないアメリカだ。とにかく買い物ばかりしているというのが私が見たアメリカ社会の姿だ。

ここにコンマリメソッドが上陸したのはまさに打ってつけであった。需要と供給が見事に合致したため爆発的人気を得る事になり、結果的にアメリカ大陸を走破してしまったのだ。そして彼女は押しも押されもせぬ時の人となった。

 

コンマリメソッド信奉者はもともとが片づけ自体に興味の高い人が多い。

既に片付けに気を遣うタイプでより自己の手法を洗練化させたい人がマジョリティのように見える。

もう一つのグループは物に支配されている自己の生活や環境をどうにかしたいと常々思ってきた人々だ。でも彼らには改善のための教科書といえるようなものがなかった。

過去にあった一般的なガイドブックはみな、どんな入れ物にどのように保管してどこにしまうか、のような手ほどきであった。

処分に当たっての判断基準を唱えるグルは近藤氏が初めてだったのだ。

 

わたしは「人生がときめく片付けの魔法」の英語版Life-Changing Magic of Tidy Upをちらっと本屋で立ち読みしただけだがあとはインターネットでその奥義たるものに触れさせていただいた。

大変興味を引いたので早速実践!となった。

 

その結果・・・たるや?

 

洋服のたたみ方やクローゼットの整理の仕方はなかなか面白いと思った。

実際整然としたタンスやクローゼットを開けるたびに不思議と感じる静かな幸福感がなんとも居心地がよい。

 

問題は物の処分の仕方だ。

何がユニークで過去にないオリジナルコンセプトかというと、

「ときめくものを大切に使う」「ときめかないものは処分」という点だ。

 

勧めに従って、実際手に取りどんな気持ちがするか自分の心に問うことにした。

 

で、なんとなんと!

「胸がときめく」経験は

 

見事ゼロだった。

ガーン!

 

要するに何にもときめかないのである。

それを発見して正直言ってショックであった。

自分は何と無関心で無感動な人間なのか?

もしかして冷たい心の持ち主なのかもしれない。

 

ところで、この「ときめき」は英語訳だと、"Spark joy"という。

実はこの「ときめき」または「Joy」というのはかなりやっかいな代物なのだ。

 

この「ときめき」とやらは一体全体なんであるのか?

近藤氏によると、「胸がキューン」とする感じらしい。

「心臓がドキドキ」する感じ?

「心がウキウキする」ということか?

ウキウキなどしない。キューンもない。

恋人に会う時のように胸の中に蝶が飛ぶ感じ?

それもない

Joy というのは胸の奥で感じる深い喜びのような意味だ。

楽しいとは異なる。

自分の家の「モノ」を手に取り深い喜びは全く沸いてこない。

 

ただ「わりと素敵」か「どちらかというと似合うからキープ」くらいの気持ちが少しは沸いたかもしれない。と言っても別になくなっても悲しくもなんともない。

 

それじゃあ、自分が無感動な人間なのかと問いただしてみるとそうでもないと思える。

数年前にワシントンDCの国立西洋美術館で壮大な油絵を見たときは感動した。

John Singleton Copleyや Benjamin WestやCharles Willson Pealeの絵が心に迫ってきたのだ。

でもその感動とは「ウキウキ」ではない。

「キューン」でもない。

「ときめく」とかそういうレベルの感動ではなかった。

 

美術史の教科書で見た作品は「なんだ、タダの風景画と肖像画」という感想だったが、それを目の前で見たときの気持ちはただただ感動であった。

言葉を失うというのはこういうことをいうのだ。

 

わたしは、美術は感性に語りかけるように思う。

反対に音楽は魂の深いところに語りかけるように感じる。

だから音楽は心に浸透し人は涙することも容易にあるのだ。

 

コンマリの「ときめき」というのはそのたぐいとは違う。

だから服飾品などに感動はしない。私のワードロープは、コーデイネートしやすい色とスタイルでまとめている。だから面白い服も変わった服もない。

商業美術の一つだし、コモディティである。

もっとも、このような実用的なものに感動を覚えることはなくても、面白みとか、ちょっとだけの「素敵」という気持ちを感じることはある。

 例外は本くらいかもしれない。本は内容が一番。役に立ったとか自分の考え方を変えてくれた、とか、美しい話だったとかはある。それはときめきのうちに入るのだろうか?

 

だから私の心は「ほぼ」ときめかない。

実用的なものにはほぼ何も感動することはない。

うちのプリンターにもときめかない。

机、テーブル、文房具、カーペット、皿にもカップにもときめかない。

調度品ですらときめかない。

 

でもうちのニャンタにはときめく。

それはニャンタは生きているから。

愛しているから。

生きていて心のある対象にはときめく。

 

自然にも心を潤わされるようなときめきがある。

それは自然も生きているから。

生きているものには心に語りかけるものがあるのだ。

こういうものに比べると自分のいつも使っているコモディティに感じるものはゼロに等しい。

 

音楽自体はバイブレーションで体に迫ってくるエネルギーが強い。

だから感動する。

ときめくこともある。

 

モノはモノでも母が作ってくれたセーターには愛を感じる。

自分が知っている人が心を込めて作ってくれたものにはたとえ「モノ」でも幸せな気持ちを感じるものだ。

それでは大量生産で作られたものの価値は何であろうか?

どのくらいの愛着を持てるのだろうか。

 

コンマリメソッドは心がときめくものに囲まれて暮らすと幸せな気分になれるのというコンセプトだ。

でも自分を最も幸せにしてくれるものは、そういう「モノ」じゃあないと思う。

好きなものに囲まれて暮らしていると幸せになれるというが、

そういうものに別れを告げないといけない日がいずれ全ての人にやってくるのだ。

それならもし「モノ」に焦点を当てた人生ならその時には幸せは無くなるということだ。

結局全てはチリとなり消えていくものだ。

 

ぼろを身に着け、欠けたお椀で侘しい食事をという意味ではない。

生活のシンプル化は大切であると思うし、無駄なものを持たないという考えも賛成だ。

ただ、モノにそこまで真剣にならなくとも、とも思えてくる。

それに所詮「モノ」はただの「モノ」でしかない。

そんな「モノ」にそこまでこだわることが馬鹿らしくさえ思えてくる。

 

まず一つ一つ手に取ってというのも面倒だと気付いた。

こんなのやっている暇はない。

なぜなら、わたしは毎日仕事に行かないといけないのだから。

一日中家にいてお片付けをしていられる余裕などないのだ!!!

 

それに、片づけをしないといけないのは引き出しの中だけではない!

1エーカーもある敷地には草が生え放題だし。

夫がサンルームを建設中なのでそこら中に道具やら木材やらワラやらが無秩序に散らばっているし。

車庫もどんなに片づけても乱雑遺伝子の夫がめちゃくちゃにしてくれるし。

夫の工房は常に竜巻が訪れた直後のようだし。

台所は常に片づけが必要な場所だし。

自分の所有物全てに対して「ときめくかしら?」

なんて

やってられないのだ。

 

では自分のような日用品とか装飾品とかに心ときめかない人はどうやって物の取捨選択をすればいいのか。

そういう人は、左脳で必需品を選べばよいのである。理論的に決断すればいいのだ。そっちの方がよっぽどシンプルだと思えてならない。

だからわたしは、コンマリメソッドの好きな所だけを取り入れてあとはバッサバッサと切り捨てることにした。

 

グルという人物の薦めをうのみにするのではなく自分に向くことだけを選択することが、主体的に生きることを意味し、実は最もシンプルであるのではないだろうか。

でも人によってはグルの言うなりになって取捨選択が無い方がシンプルで楽だ!というかもしれない。それは他でもなく自分で責任を取らなくて済むからである。自分のやり方でやる、というのはリスクが伴い危険でさえある。

確かに。

 

こういう目立たず周りと歩調も語調も合わせる平和な生き方を「長いものには巻かれろ」主義と言うらしい。

これは日本人特有の国民性であるように伺える。狭い国土に肩をすり合わせながら生きていくための生きる術として何百年もかけて培われてきた気風ではないか。

それは必ずしも欠点ではなく長所でもある。それが極めて日本という国を日本たらしめたる要因なのではないか。それとは反対に自己主張と多様性を重んじるアメリカ文化は常に対立と緊張感が絶えず平和からは程遠い。

 

ただ、そういう「長いものには巻かれろ」的な生き方をするとやっぱり社会で流行ってことに振り回される人生になるんだなあと思う。到底わたしには不可能な道だが、そうしたい人の気持ちも容易に分からないでもない。

 

 

 

 

 

日本人には絶対不可能な正真正銘のナチュラルライフとは

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知り合いの家族。母親は北欧系アメリカ人。父親はポーランド&オランダ系アメリカ人。そのためか家族全員スリムで長身で美形。愛がたくさんある家族。でもそこには・・・驚くような秘密があるのだ。

わたしたち夫婦は先週末に隣町の知り合いの家に招かれた。

2週間前に葡萄がなり過ぎたので、取りに来てもらった家族だ。

始めて裏庭の果樹を見て、建築中のわらのサンルームを見て、一気に”同志意識“が高まったようだ。そのため、よりお近づきになりたいと思ったのか随分しつこく誘われた。

それで、そんなに勧めるならと、行ってみることにした。

 

家は普通の住宅街にあったが、その割には庭は結構広かった。中に入ると、さっそく貼りなおしたばかりのダイニングルームの床のお披露目があった。しかし新しいはずの床は無垢色ということもあり既にかなり汚れが目立っていた。自然派なのでワックスを塗っただけの床を5人の子供たちが徘徊しているのだが、そこには、スニーカーをはいている子供、はだしの子供、靴下だけをはいている子供、ブーツをはいている子供と様々だった。

念の為に付け加えておくが、アメリカは、通常家の中でも靴を履いたままだ。

でも靴を脱ぎたい人もいるので、靴を履いている人と履かない人が同じ床を歩くことになる。

よって床は汚い。靴下も汚い。

はっきり言って床など貼りなおさなくてもよかったのだ。

どこから見ても新品には見えない。

 

食事のテーブルもベトベトしていて黒ずんでいる。

最後に拭いたのはいつかしら???

当然食物をテーブルに移す前もテーブルを拭く気配はない。

誰も食事の前に手も洗わない。

この日に限ったことではないらしい。

 

食事の残り物はそのままテーブルに2時間も出たままで、食事の後片付けを手伝う気配はない。五人の子供たちの一番上は高校一年生の女の子。片づけを言われなくてもできる年齢。でも片づけない。残りの子供たちも一番下を抜かせば全員女の子。だれも片づけるなんてしないので、わたしがやろうとしたが、しなくていいと言われた。でもなんか危険じゃあない?

いや~。この家族にそんな危険なものなんて存在しないのだ。

腐敗はごくナチュラルなプロセス。細菌も極めてナチュラルな生き物。

 

庭には鶏小屋もある。

子供たちはメンドリをペットのようにずっと抱きかかえながら、庭になっているラズベリーなどを摘まみ食いしていた。

おえ~~~。

 

一番下の3歳の息子は白い靴下のままで糞が落ちているぬかるみでも意気揚々と、泥を跳ね返しながら飛びまわっていた。

お姉ちゃんたちも裸足でまさにジャングルのターザンそのもの。

当然雨が降ったあとだから泥で足が真っ黒になった。

ブーツをはいていた次女も泥がブーツについたまま、メンドリの糞が付いたままで家の中に戻ってきた。そしてそのブーツを脱ぐとか頭にも浮かばないようで、そのまま家中をウロウロしていた。当然ニワトリを触った手はそのままで、親も子供も手を洗わない。

でもね~鶏の糞に含まれているバイ菌って超危険なんですよ!!!

 バイ菌で病気になるし、死ぬ人だっている!

恐怖のバクテリア名を聞いたことがないとは言わせない。

ちなみに父親は医者だよ(脳だけど)!医学部出身者は微生物学とか取るでしょうが!

 

こういう世にも恐ろしい鶏につく菌の数々を知らないのだろうか?

例えば・・・

  1. Salmonella サルモネラ菌
  2. Campylobacter カンピロバクター菌
  3. Listeria リステリア菌
  4. Campylolacter カンピロカクター菌
  5. E. coli 病原性大腸菌!!

 

 いかにも菌の名前って感じでしょ?

 

でも母親も父親も何も気にせず笑っていた。

殺菌用のウェットテイッシュなど全く登場しなかった。

 

究極のナチュラルライフそのものだよ!!!

石鹸で手を洗うなんて持ってのほか。

だって、自然じゃないでしょ?

 

そういえばハロウィーンでもらったグミを見事全部地面に落とし、汚れも取らずに食べている子供がいた。隣に父親がついていたが、彼が笑いながら言った言葉は、「免疫力の増進になるな~」のみ。絶句。

 

夫の実家には雑巾らしきものがある。でも食卓を拭くのも、床を拭くのも、まな板を拭くのも全部同じ雑巾。それだけではない。

この雑巾はめったに洗われることがない!

夫も食事の前に手なんか洗わない。食卓も拭かないし、菌なんて語彙は彼の(家族の)辞書にはないし、話題にあがることも皆無だ。

 

これで病気にならないアメリカ人って体がよっぽど強いのね。

免疫力が生半可じゃあないのね。

やっぱりそういう環境にいれば、体も慣れてくるのかしら。

それとももともとそういう体質なのか。

とっても不思議でたまらない。

 

でもこれがアメリカのナチュラル志向の人の典型なのだ。

日本ではナチュラル志向というと、ナチュラルなシャンプーとかナチュラル素材の家具とかオーガニックの野菜を買うとか、ほとんどは極めて清潔で自分の手を汚さないナチュラルライフのイメージだが、ここはそれを通り越えたレベルなのだ。

ちなみに、この家のメンドリが歳をとって卵を産まなくなると、家族でメンドリの頭を包丁でちょん切り体は熱湯につけて、羽をむしり、そのあとみんなで食べちゃうのです。

 

いくらナチュラルが、自然が、好きといっても、こういうのはちょっと・・・。

動物を殺すのも不可能。

菌の話に戻るけど、やっぱり菌がどうのってスケールの小さい事を言っている自分はやっぱり日本人だからか。

小さな島国の人間だから見えない菌などでごねているのか?

ただどうも菌がうようよしているのが想像できちゃうのです。

 

だいたい日本の殆どは高湿温暖のため、アメリカ人みたいな生活をすると一気にコレラとかに罹りそうだ。

反対に彼らは、ここの空気が乾燥しているから「菌」など頭にも浮かばないのであろう。

それからやっぱりこういうおおざっぱさは大陸文化を実に象徴していると思う。

 

で、結局私はそのお蔭か具合が悪くなってきた。

鶏と汚い家の菌にやられたのかもと疑ってかかっている。

 

ナチュラルライフを目指しているけど、こういうのははっきり言って絶対無理なのだ。

でも正真正銘のれっきとしたナチュラルライフって最低この位のレベルを指すのだと思う。

と、こんなことをいっているけど・・・

実は我が家にはネズミを捕らえる猫がいる。トキソプラズマ症というのもあるし、過度の接触は危険。でもあまりにも可愛くてそんな警告は当然無視している。

だからきっと知り合いのメンドリだってうちの猫と同じようなものだ。

ということは、都合のいいナチュラル主義だから知り合いのメンドリや不衛生さを、どーのこーのと裁く資格は自分にはゼロかもしれない。

 

それにお邪魔した家の子供たちは、みんなおおらかで幸せそうで素直で実に可愛い子供たちだった。小言を言われっぱなしで萎縮してしまうより菌と仲良く共存できる能力の方が大切かもしれない。

 

 

 

 

断捨離中毒はこわ〜い病気

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断捨離中毒の果てはこうなる。真っ白の部屋にいると気が狂うと言われているけど、これが流行りなのでしょ?

(出典:http://www.leaf2000.ne.jp/blog/?p=2450


断捨離とはなんと気の利いた言葉だろうか。

ものを断ち、捨て、離れる。

ほとんどの人はこれをレベルの差異はあっても知らず識らずと実行しているはず。

 

ものを処分し始めると、その気持ち良さからどんどん処分していくことになる。

断捨離の究極はミニマリズムで、徹底するとやはりこの道に行き着いてしまうのだ。

それはそれでもいい。

でもそこにも問題がある。

 

中毒のようになり本当に全てを処分してしまうケースもある。

それが精神病の一つとしてアメリカで注目を浴びた。生き過ぎた潔癖症で離婚になるケースもある。もちろんその反対のケースもある。

物が視界に入ると落ち着かなくなってくるのだ。

なんかわかる気がする。自分にも経験がある。

 

でも捨てればいいってものじゃあない。

断捨離が実際問題になるのはこんな場合だ。

 

1。環境汚染

2。必要なものまで処分

2。家族のものまで処分

3。断捨離が生きがいになり、究極の人生の目的となる

 

1。環境汚染

確かに家の中に物が少ないと空気だけでなく心もスッキリする感じがする。

清潔な感じがする。

ものを捨てるかどうかは個人の選択なので別にそれでいい感じがするが、

果たして、捨てたものの行き場はどうなるかと、思わず心配してしまう。

 

アメリカにはいらない物を引き取ってくれる店が結構たくさんある。

だからいらない物を必要な人のために寄付しているのだと自己満足している人がほとんどだ。

でも事実は、寄付したもの、特に服などは全体の15%しか再利用されない。

ほとんどはゴミ山に捨てられることになる。

だから環境汚染の原因となる(アメリカは焼却は大気汚染になるからと何でも大地に埋める。でもこれも環境汚染)。

 

2。必要なものまで処分

必要になればまた買えばいいのだからというのが理由だが、と言っても買うためにはお金が必要となる。いつでも買える人はいいけれど、我が家は無理。よって本当にいらないと思うものはリサイクルに回しているが、整頓してしまえるならとってある。

服は”今”着ないものは処分、はない。服は着古せば替えの服が必要で、その時のためにクローゼットにとってある。これを無駄と言えばそうだが、必ず着るとわかっているのでとってある。当然、流行にあまり関係のないクラシックな服を着るようにしている。古くなった服を捨てることは断捨離の鉄則かもしれないが、わたしは捨てない。古着はリメイクして布団の生地にしたりしている。

何が必要か必要でないかは個人で違うから、徹底して捨てることもない気がする。

我が家は本当に今までも使ってないしこの先100%使わないし、好きでもないし価値を見出せないし、再生利用も不可能で、健康にも悪そうなら処分ということで、処分する際の物差しがある。

すっきり暮らしたいが、節約のためには”何でも”捨てることはできないのだ。

 

3。家族のものまで処分。

断捨離にのめり込むようになると、全ての物という物が、気になって仕方がない。

だから娘がいない間に娘の部屋を勝手に片付けた経験がある。娘は物を溜め込むタイプで、部屋を見るたびに処分したい衝動に駆られていた。そしてある日ついに衝動に負け、見事に大量のものを捨ててしまった。

今考えるとこれは間違いであると思う。家族といえども別の人間。

本人が物と決別することを学ばないと一生できるようにならないからだ。

でも断捨離をやっていくと、絶対ぶつかる壁のように感じている。

 

3。断捨離が生きがいになり、究極の人生の目的となることも多々ある。

毎日やっていると確実に中毒になると言える。そしてその手の情報を常にくまなく探していて、ネットで行くところも全部これ。読む書籍もこれ。話す話題もこれ。となる。

他の言葉で言い表すならまさに”断捨離おたく”。

どうやったらすっきりとした部屋になるか、いつも研究に研究を重ね、それでプロになる人もいる。それはそれでいい。そういう情報も大切だと思う。

でも私が思うには、片付けとか断捨離って人生の目的じゃあないですよね。

まさか、これが生き甲斐なんですか?

生きていて一番大切な事柄って「物」じゃあないですよね。

だから一番大切な他の事柄に集中するために「物」を処分しようとしているわけだけど、実はその「物」に振り回されてしまっているように感じるのです。

 

私は物を作ったり絵を描いたりすることが好きな人間。

だから物づくりの道具は処分できない。

世の中には物じゃあなくて「経験」を大事にする、と言っている人がたくさんいる。

でも物を使わない経験と使う経験の二種類があって、使う方が好きな人はどうなるわけ?と思ってしまう。

だから、家にそれなりに収納できていて、足の踏み場があって、見た目がそんなに乱雑でなければ、ここで断捨離は終わり!と終止符を打つことも必要であると自覚するに至った。

捨て始めると本当に終わりがない。何もないところに住むのが気持ちよく楽しいならそれでいいけれど、そこまでしなくても、と思えるならその辺で止めるのも思慮深い決断であると思う。

なぜなら、

生活をして行く限りは、この断捨離を”ずっと”続けていかないといけない。

だからのめり込んだら本当に一生こればかりすることになる可能性もかなり高い。

そんな人生でいいんですか?

 

当然

片付けは大切。

家を綺麗に保つことも大切。

清潔にすることも大切。

でも全てを犠牲にしてやることではないし、

まして人生の使命とか目的とかじゃあないですよね。

だから”適度”が鍵で、

物を圧倒されるほど溜め込む人はですね、

最初から物を買わない、というのが一番賢いんじゃあないか、と思うのです。

実は片付けが苦手で物を溜め込む我が子全員に同じ助言をあげたけど、なかなか実行は難しいよう・・・。

そんな彼らに言えることは

まあ、自分でどうにかしてね〜。

だけ。

 

 

 

 

シンプルライフって本当は何?ものを捨てることだけ?

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我が家のリビングルームの様子。庭に咲いていたdaisyの花をガラス瓶に無造作に入れたみた。日本の生花のような洗練された芸術からはかけ離れている。高価な器でもない。シンプルなだけ。でもシンプルさの中に心の奥底に届く美しさがある。自分もこの花のようにシンプルに生きたい。本当の洗練性はシンプルなものの中にあると思う。


シンプルにいきたい

そんな風に常々思ってきた。

ただの憧れかもしれない。

それならシンプルライフの定義はなんであろうか。

自然な暮らし。

簡素な暮らし。

質素とは違う。

貧乏暮らしとも違う。

でも我が家は多分貧乏暮らし。

持たない暮らしという人もいる。

時間の使い方をシンプル化?

暮らしをシンプルにして丁寧な暮らしを目指すこととも言われている。

つまり人によりどのレベルがシンプルかが異なる。

だから、自分なりのシンプルライフを追求するのが正しい方向なのでは。

 

日本では、シンプルライフ、イコール物を減らすこと、と一般的に解釈されているようだ。確かに、日本は土地の面積といい家もアメリカなどの大陸に比べれば狭いせいか、物を減らすことが、生活の改善化にとても大きな影響を及ぼすというのは納得できる。物が多いと片付けに時間がかかり、生活が複雑化する。よって、すっきり暮らすことができるなら当然生活はよりシンプルになるであろう。

さらに乱雑な環境では穏やかに生活することは難しい。その理由か、寺院や教会堂は大体が無駄なものは目に入らず、清潔ですっきりとしており美しい。確かに精神性を磨くには、また自己内省には物は邪魔者であるかもしれない。ものを見るのではなく心と神を見つめることに焦点を置いているのだ。つまり目的がはっきりとしている。

それに比べて人の住まいはどうであろうか。生活は多目的で常に変化している。そのため、物が必然的に増える。そういう家に住んでいてイライラしたりするのは当然のことだと思う。消費社会の行くに末は物に支配される人の悩みがあり、この現代を映し出す動きが断捨離であり、コンマリ法(米国でも知らない人はいないほど人気)である。そのレベルでは満足がいかない人は、ミニマリズムを追求する。

つまりこれが究極のシンプルライフと言えるかもしれない。

ミニマリズムは禅が源である。つまり元々の思想は東洋が発祥地で、西洋に輸入されたものだ。その後日本に新しい名称で逆輸入された。

ということはシンプルライフのエッセンスは禅宗が起源?ということになる。

 

しかしアメリカのシンプルライフは実はもっと許容範囲が広い。

当初は昔のシンプルで素朴な生活を意味していた。例えばアーミッシュのような現代テクノロジーに逆らい流行などに惑わされずに静かに生きる人生を指していた。彼らは時に尊敬され、時に時代遅れとバカにされることもあった。

しかし環境汚染などの結果を目の当たりにし、物質快楽主義から目覚める人が増えてきて、再び注目を浴びるようになってきた。社会の風潮に惑わされずに自分達の信条を守ってきた人々が勝利したかのように見えた。いくら物を買えてもそれが幸福の真髄に繋がるわけではないからだ。2000年前の哲学者でさえ生活はシンプルにするべきと語っていたが(当時は今よりはるかにシンプルライフのはずだけど・・)、それが現代人の耳にやっと届いたのだ。人は本当の幸せについてやっと理解し始めたようだ。

(でも〜。職場の同僚の話を聞いていると、どうも皆お金儲けとバケーションと早期退職に最も興味があるように見受けられる。シンプルライフは流行っているような感じだけど、実際に実践している人を周りに見つけることは結構難しい。)

 

我が家も、物質や快楽を追い求める生活には限りがあることを理解している。かといってそこまで自由に使える収入があるわけでもない。たとえあったとしても、子供が4人もいれば支出は多い。子供達が幼い時は夫の学生ローンを返しながら、キツキツ生活を余儀なくしてきた。また、子供の数が多いとミニマリズムは無理。それにオフィスみたいな寒々とした家で子供を育てたくないし、情操教育に悪そう・・・。だから「整理整頓の持続時間が1日に最低何時間はあり、母親が発狂しない程度」であった。

では我が家のシンプルライフとは何か?

エコライフであり、ナチュラルライフであり、余計なことに首をつっこまない生活である。そして素朴な生活を意味する。つまり自分たちにとってシンプルな生活ということだ。

我が家で特に気を入れて実践している事柄は下記を含み、これがアメリカでも一般的。

断捨離(時々思い立ったようにやる)、田舎暮らし、小さな果樹園と家庭菜園、食料貯蔵、CO2減少&資源&環境保護、ゼロウェイスト、節約(必需品は買う)、DIY(家の改造など) などがあげられる。これを複雑化しないように実践している(複雑になるとシンプルじゃないでしょ?)。

上記の活動は、ただ単にそれがやってみたいから実践しているのではなく、その根源は自分たちの信念に基づいている。

それは、人生の目的がなんであるかによる。何が生きていく上で最も大切かを見極めることにかかっている。

なぜ生きていくのかがわかれば何を取捨選択すべきが見えてくる。けれども根本を明白にできなければ、流行に振り回されているだけで社会の操り人形になっているだけでしかない。

それは他ならぬ「自分を知ること」にかかっている、と思う。

 

シンプルライフは人それぞれで良いと思う。

それは人によって人生が違うから。何が複雑であるかも違う。

人によって価値観が違う。それでいいんじゃあない?

 

Life is really simple, but we insist on making in complicated.- Confucius

人生は本当はシンプルのはず。でも我々はわざわざ意図的に複雑にしているのさ。孔子

 

ああ〜これって、まさに真実ですね。

 

 

 

 

木が宿すもの

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通りにある一本の木に宿る神聖な力を感じざるを得ない。

木は神聖なものである。

木と話す、

木に耳を語りかけることを知るものは真理を知る。

木は教義も処方も説かない。

木は個々のことにとらわれず、

生の根源法則そ説く。

   ーヘルマン・ヘッセ

 ( ドイツの小説家、詩人、ノーベル文学賞受賞/1877−1962)

 

我が家の庭には40本以上の落葉樹がある。

ほとんどは楓の木であとは様々な果樹が占めている。

目の前の田舎道もトンネルのように木々に覆われている。

 

木は北極から吹いてくる冷たい風が人に当たらないようにブロックしてくれ、

夏には日陰を作ってくれる。

野生の動物たちが雨や雪をしのぐための隠れ家となる。

 

黙ってただひたすらそこに立っている。

つららが枝を覆うとも、大風に揺れても、竜巻に体の半分をさらわれても、雷に燃やされても、だだ立ちすくんでいるだけだ。

何十年も何百年も静寂とともに生きている。

その存在自体が生きる意味を教えてくれているかのように見える。

それなら木は何を人に語りかけようとしているのだろうか。

それはきっとこんなことだ。

 

「何があっても動じることのないように。

明日はわからないものさ。

だから、今日、今、

君が置かれたこの場所を動かないで、踏ん張ってみよ。

騒いでも何が変わるわけではないんだから。」

 

木は周りの木と比べたりはしない。

楓の木は楓。

楠は楠でしかない。

自分の個性で精一杯の命を生きている。

そんな雄々しく美しい姿を見ているだけで、

もっとも大切なものは何なのかとわかってくる。

言葉での理解ではなく心のレベルの理解なのだ。

 

木は生きている。

人間の英知では理解できないレベルで生きているのだ。

多くの人が木にも魂があると信じて疑わない時代があった。

古の人は山に神が宿り、木に精霊が宿るという言い伝えを素直に受けとめていた。

確かに自然の多いところには不思議な力があると感じられる。

それをエネルギーと呼ぶ人もいる。

神聖な力と呼ぶ人もいる。

その力の中にうごめくものが魂の語りかけなのかもしれない。

 

だから人の魂と木の魂は共通の言語を介しないで語り合える。

それは両者の中に神聖なものが宿っているからではないか。

 

耳を澄ますと聞こえてくる不思議な囁き

目をこらすと見えてくる不思議なオーラ

心を向けると感じる木の神聖さ

そして自分の中の深遠な部分を

木は慈しみで包み込んでくれているのだ。

 

 

 

 

自給自足①の巻:庭のブドウでジュースを作るぞお〜!

 

わが家の自給自足は大幅に手抜きで本格派からは程遠い。

11年前にここに引っ越してきた時に、既に食用になる植物が食べきれないほど庭中に生っていた。ブドウもしかりである。畑もあるが、畑を耕すより、ほったらかしでも没滅の危機のない野生もしくは半野生の植物を主な果物や野菜として利用する方が、行雲流水主義のわたしたち家族にとって、はるかに手頃だ。

アメリカ北中西部は秋の到来が早い。毎年9月中旬にはこのブドウの収穫が開始され、我が家でもこのブドウでジュースを作る習わしがある。これをワインにしたい人もおられるだろうが、我が家はアルコールを嗜む習慣がないので、ジュースのままである。そしてそれを一年を通してちびちびといただく。極上の楽しみだ。

家に来客がある時も必ずこのブドウジュースが出される。ビンにリボンをつけてクリスマスプレゼントとして知人にさしあげることもある。

今年もブドウが熟したので先週末からこのジュースを作り始めた(実はブドウの収穫はまだ終わってなく、バケツの中身は氷山の一角である)。

家の中でもできるが、汚れるので通常は外ですることにしている。

写真の背景は我が家の裏庭。木の床はデックで二階の高さにある。調理のために、バーベキューグリルの上に(別にここに乗せる理由は特になかったが夫が勝手に決めた・・)ガスバーナーを設置しその上に鍋類をのせている。

 

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バケツに収穫したブドウ。



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ブドウを煮詰める鍋。

 

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ビンのふたを5分煮沸消毒。

 

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ビンも5分間煮沸消毒。

 

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バケツの半分のブドウを沸騰した鍋に入れるため準備。

 

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鍋の一番下の層。ここに水を入れて沸騰させる。

 

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真ん中の層。下からの蒸気が上の層のブドウに届き、ブドウが破裂して、皮は一番上の層に残りジュースはこの層に入る。

 

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    鍋の一番上の層に洗ったブドウを入れる。プロセス後はここに皮だけが残る。

    沸騰した鍋に入れ1時間ほど(またはブドウの皮が全部上の層に移るまで)蒸す!

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    鍋の下方から出ているホースにジュースが流れてきているのが見えたらプロセスは完了。


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    ホースの先の金具を調整して出口を開ける。ホース内のブドウジュースをガラスビンに入れる。ビンの下はバケツ。


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ビンが一杯になったら下の金具を再調整して出口をふさぐ。

 

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レモンを大さじ1杯入れる。レモンがジュースをより酸性にし菌とかびの繁殖を防止する。

 

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ビンの上を触って割れている部分や埃や土などの異物がついていないか確認。

 

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ガラスビンに入ったジュース。横から見た感じ。

 

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ジュースが熱いうちに煮沸消毒済みのふたをかぶせる。

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密閉されるようにリングをふたの上からかぶせきつくなるまで締める。

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完了!

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地下の食料貯蔵エリアに保存。緑の箱の中に入れた。

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去年のブドウジュース。年月が経てば経つほど色が濃くなり甘みが増す。作りたてはちょっとサワーな感じ。

とまあ、これが作り方の順番だがおわかりいただけたかな?

お判りのように結構時間がかかるので蒸し時間に他のことに専念することにしている。かといって無視もいけない。見ていないようできちんと監視していないといけないところが簡単なようで難しい点であると気づいた。

だから忍耐を試される仕事と言える。

栽培の段階ではブドウ畑のサイズや気候などの環境により注意の度合いが変わる。
また真面目に「世界でも有数のワイン」なんていうすごものを目指している有志にとっては、かなりの注意を向けないといけない仕事であるに違いない。

で、このブドウ畑の世話だがフランス語の諺がある。

「ぶどう畑と美人は手がかかる」
Les vignes et les jolies femmes sont difficiles a garder.

と言われているように大規模なブドウ畑の手入れは一般的に手がかかる。

しかし我が家の小さなブドウ畑は手がかからない。

ということは、世話をしている張本人も「手のかからない不美人」ということになる・・・そんな!・・・でも・・・まああまりにも当たっていて・・・何も言えないのが、ただちょっっと悔しい気分。






裏庭のブドウ先生に教えてもらったこと

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裏庭のブドウ。手入れはいたって簡単。その名も「野放し手法」。干してある布団だがアメリカでは誰もしないはずだし未だかつで見たこともない。アメリカ人は飾りつけや見かけの美しさなどを異常に気にするが、実はそれほど「微生物学的」な清潔度を気にしてはいないようだ。理由は湿度が日本より低いことと大陸文化が該当する。


わがやの裏庭にはブドウの木がある。今年の春は長く雨も多かったので上出来の収穫だった。

ブドウというのはツルが長く連結しからみ合いながらコロニーを作っている。さながらブドウ社会とでも言えるかもしれない。

ブドウの木の果実は大きくなるにつれ、「どこか」にぶらさがらないと重力に耐えることができない。この「どこか」は頼れるものならなんでもよく、これを探しながら、おんぶにだっこで成長を遂げる。人間の成長と似ている。

人間も「おんぶにだっこ」で大きくなり、大人になっても周りと持ちつもたれず生きていく。決して一人ではない。独立独歩が大人の証拠であるかのように思われているが、実際は違う。実際全部自分でなんでも出来る人が果たしてどのくらいいるのであろうか?

嵐がやってくればブドウも揺れる。でも強いツルという社会のつながりに守られて決して枝から落ちることもない。ブドウは外側より、葉やツルでうっそうとした内部に身を潜めるように生っている。それは甘い果実を採ろうとする敵から身を守ろうとしているかのようだ。人の社会のツルも若い時には自由を奪う煩わしいもの、とみなされることもあるが、年齢を経ていくにしたがって、それが大切であると分かってくるのではないだろうか。

ブドウは一見全部類似して見えるが、実は一房ごとサイズも色もちょっとずつ違う。ブドウだって個性を出したいに違いない。でもブドウの遺伝子が決めた通りの個性で健やかに守られて育つ。太陽と水と肥料から栄養をもらい、やっと収穫時になり、始めてコロニーの外に出ることになる。その時には甘く素敵なブドウの果実となる。

人もそうだ。一人前になる前は、家庭という守りの中で育ち学んで行く。甘く立派なブドウの実になるための準備をしているのだ。

でも自分の子供たちを思うと、コロニーの中でのほほんと過ごしすぎたのか、一人前にならなかったような気がしてならない。

我が家の子供達の半数は、ツルは全部バッサバッサと切り捨てて、いきなりコロニーから飛び出していった。まだ未熟で完全に実っていないうちに。自分のルーツなど完全に捨てたようだ。

 

自分は「ブドウ」なんぞなりたくない!と叫んでいる。

何か他の「別物」になろうと必死にもがいている。

 

彼らの外の人生は大変そうである。 自分で全てを決めて誰にも頼らず人生を完全にコントロールしたいのだが、それがうまくできずフラストレーションが溜まっているのだろう。頑固で謙虚さに欠けると助けてくれる人もそうそういない。友人も「類は友を呼ぶ」系のみ。これじゃあ、にっちもさっちもいかない。耐えかねて助言でもあげようものなら怪訝な顔をされるので口をつぐんで黙っているしかない。

とは言っても、黙って影で見守ることの実にしんどいことよ。

だから、

「悩んでいるんじゃない!苦しんでいるんじゃない!彼らは学習中なのだ!」

と親は自分に言い聞かせている。

 

ブドウよ、ブドウ。いつまでも渋いと収穫はゼロだぞ〜。

あっという間にカチンカチンのレーズンになり地面に落とされるだけだぞ〜。

昔は「ブドウ」だったとは誰も思いもしないただの黒い班点になり忘れられた存在になるだけだぞ〜。

と、いいたいけど、どうせうちの「ブドウ」たちには馬耳東風に決まっている。たとえ耳に届いてもどうせうとまれるだけなのでやめておこう。

悪いけど人生の償いは自分でやってもらうしかない。

ツルを断ち切った「ブドウ」を今さら救ってあげることはできないのだ。悲しいけど。

それが自然の掟なのだ。

と、裏庭にお住いのブドウ先生に教えてもらった。

イラスト:MCL