木は神聖なものである。
木と話す、
木に耳を語りかけることを知るものは真理を知る。
木は教義も処方も説かない。
木は個々のことにとらわれず、
生の根源法則そ説く。
ーヘルマン・ヘッセ
( ドイツの小説家、詩人、ノーベル文学賞受賞/1877−1962)
我が家の庭には40本以上の落葉樹がある。
ほとんどは楓の木であとは様々な果樹が占めている。
目の前の田舎道もトンネルのように木々に覆われている。
木は北極から吹いてくる冷たい風が人に当たらないようにブロックしてくれ、
夏には日陰を作ってくれる。
野生の動物たちが雨や雪をしのぐための隠れ家となる。
黙ってただひたすらそこに立っている。
つららが枝を覆うとも、大風に揺れても、竜巻に体の半分をさらわれても、雷に燃やされても、だだ立ちすくんでいるだけだ。
何十年も何百年も静寂とともに生きている。
その存在自体が生きる意味を教えてくれているかのように見える。
それなら木は何を人に語りかけようとしているのだろうか。
それはきっとこんなことだ。
「何があっても動じることのないように。
明日はわからないものさ。
だから、今日、今、
君が置かれたこの場所を動かないで、踏ん張ってみよ。
騒いでも何が変わるわけではないんだから。」
木は周りの木と比べたりはしない。
楓の木は楓。
楠は楠でしかない。
自分の個性で精一杯の命を生きている。
そんな雄々しく美しい姿を見ているだけで、
もっとも大切なものは何なのかとわかってくる。
言葉での理解ではなく心のレベルの理解なのだ。
木は生きている。
人間の英知では理解できないレベルで生きているのだ。
多くの人が木にも魂があると信じて疑わない時代があった。
古の人は山に神が宿り、木に精霊が宿るという言い伝えを素直に受けとめていた。
確かに自然の多いところには不思議な力があると感じられる。
それをエネルギーと呼ぶ人もいる。
神聖な力と呼ぶ人もいる。
その力の中にうごめくものが魂の語りかけなのかもしれない。
だから人の魂と木の魂は共通の言語を介しないで語り合える。
それは両者の中に神聖なものが宿っているからではないか。
耳を澄ますと聞こえてくる不思議な囁き
目をこらすと見えてくる不思議なオーラ
心を向けると感じる木の神聖さ
そして自分の中の深遠な部分を
木は慈しみで包み込んでくれているのだ。