空気が綺麗なところを求めて11年前にこの村に引っ越してきた。その前は排気ガスが充満する旧埋め立て地に住んでいた。つまり新天地を求めてこの村にやってきたのだ。
ここは日本の知り合いに言わせると「どこから見ても田舎」。気遣いのある母によれば「軽井沢みたいなところね」。夫の仕事関係の方々は「なんでこんなところに住んでいるの?(こんなところとはなんだ!)」と、随分はっきり言ってくださる。
ヨーク村は実質的にはヨークタウンシップと呼ばれている。タウンシップとはタウン(町)とヴィレッジ(村)の中間のサイズで、何を基準に決めるかというとどうも人口らしい。
「タウン」というからには「町」というイメージを持たれるかもしれない。けれど、ここに町らしきものなど、はっきり言って何も見当たらない。だいたい町と呼ぶからには、小規模な商業店舗の一軒くらいあっても良さそうだが、それもない。果てなき小麦畑と、とうもろこし畑と、大豆畑と、いくつかの池や湖を除けば、離れて建っている家屋のみである。公共の建物はほったて小屋にしか見えない役場くらいで、唯一のビジネスといえば近くの射撃練習場のみ。だからどこから誰が見てもやっぱりここは「村」と言った方がふさわしい。
生活必需品は隣のまた隣町に買い出しに行く。図書館も然りである。当然日本の街のように「ちょっとそこまで」とサンダルをつっかけてお買い物というのも絶対無理。
当然ここには農業以外の雇用機関はない。だから夫も私も結局、隣のその隣のまたその隣の町へ仕事に出かける。中途半端といえば確かにそうだが、夕方と週末にこの田舎で体も魂も休めるようにしている。夢はやっぱり自給自足。本格的なナチュラルな生活が理想。でもそこには克服できない現実という壁があり、それを踏まえての「理想」で満足するしかない。自分の中で「このレベルならまあまあいいか」と妥協することも生きて行く上での知恵かもしれない。
ヨーク村は、日本の基準からすると「不便で何もない」かもしれないが、自分のニーズを満たしてくれるので、多少不便で消費社会からかけ離れていたとしても「自分にとって」充分と言える。何よりもどんな高価な芸術作品にも勝る自然がある。それはナイアガラの滝やマッキンリー山のような目を見張る壮大な自然とは異なる。(ただの森と田園だけ)観光客も来ることはないし、ましてブログで紹介されるなんてことも未だかつてない。だいたいここが一体どこであるか、州民で知っている人が何人いるのか。検討さえつけられないのが多数派だと確信している。
だからこんなアメリカ中西部のどこにでもありそうな「知名度ゼロ村」に住みたい「かっこ悪い」日本人はきっと世界どこ探してもわたしだけに違いない。
ヨーク村は堂々と「かっこ悪く」生きることを許してくれるところで、そこが自分にとっても合っているのかも、と最近とってもそう思える。