結婚のシンプル化
西洋人の愛情表現というのは、日本人には「ちょっと大げさでは?」と見えることも多い。もちろん、つきあっているときはこういう「ウキウキ感」は、むしろ歓迎だった。
でも結婚すると、やっぱりこういう「濃い」愛情表現が面倒になる。
だからこういう文化に染まることが出来ない人にとっては、国際結婚はより難しくなるかもしれない(個人的にはこれが一番感じる文化の差で、他はあまり感じない)
なぜ、彼らは愛情をおもむろに表現するか。最初の理由は単に文化だから。
まず彼らの文化には「察する」とかいうのがあまりない。つまり「言わなくともわかっているだろう」というのはないのだ。
西洋の文化では「言わなければわからない」「態度で示さなければわからない」という考えが常識なのである。
だから愛情も、何もしなくとも何も言わなくとも「わかっているはず」は通用しない。
だから態度ではっきりと意思表示をしないといけない。そう毎日。
もう一つの理由は最初の理由の結果でもあるが、
それは「ドキドキウキウキ気分」、つまり「恋心」を続かせるためだ。
単調になりがちな結婚生活にスパイスを利かせることが結婚の長続きの鍵だと彼らは知っている。
それは植物を育てることと似ている。
植物には太陽や肥料や水が必要で、これをさぼるとあっという間に枯れてしまう。
愛情もこれと同じように常に養う必要があり、さぼると枯れてしまうのだ。
気持ちがどんどん離れてしまう。
マンネリ化してしまうのだ。
(アメリカでではマンネリ化は離婚への危険信号なのだ。)
あら、そんなところに花なんかあったかしら?
すっかり忘れてたわ~。
なんて、
そんな感じ。
それでわが家はどうかというと。
う~ん。
時々夫は寂しそうな顔をしているなあ。
でも特に相手も何をしてくれるわけでもないし。
だいたい自分の父親が女性を大切にするタイプからは程遠く、ほとんどパワハラだったので、レデイ―・ファーストなどの馴染みのないことは結婚直後さっさと消えた。珍しく父親が妻のためにドアを開けてくれるとか椅子をひいてくれるとかしないタイプなので夫もしない。ついでに日本人妻から期待されてもいないのでやらないことにしたらしい。
心は優しい人だが素振りは極めてニュートラルな彼。
でも喧嘩をするわけでもない。
かといって歩み寄るわけでもない。
互いの視界にある範囲で平行線をたどっている感じだ。
ただわたしたちには共通の関心事があるので、話す話題には困らない。
夫婦というよりは同志かもしれない。
どちらかというと一致団結した同志かもしれない。
ウキウキするようなことはないが、一生連れ添うという覚悟ではいる。
だからなるべく言い争いは避け、互いに平和に対応するようにしている。
それでもいいかな、と思っている。
指輪も花束もいらない(バレンタインに毎年花を買ってくれるが)。
特に一緒に行きたいところもないし。
いや~、実にマンネリ化してます。
これをアメリカの友人に言うとほとんどが怪訝な顔をされるけど。
それがどうしたっていうの!
そういえばこの8月は結婚30周年だった。
何かイベントを企画しようと思ったが、ちょうどその頃、夫は職場で大きな訴訟問題に対応していて、それどころではなかった。加えて私は花粉症が悪化して外に出かけられる状態ではなかった。
よってキャンセル。
当然キャンセルしても両者から文句も愚痴もこぼれていない。
でもこんなのはアメリカで絶対ない!
30周年記念をほおりだしたら、それこそ離婚になってもおかしくはない。
でもうちはこれでもいいのだ。と開き直っている。
シンプルライフを生きているからだ。
人間関係もシンプル化が大切。
結婚関係もシンプル化。
それが「覚悟」の結婚に必要かと思う。
長続きさせるコツはどこの国でも同じ
結婚の定義が「どんなことがあっても一生連れ添う」ことなら、どうやって「一生」なんて長いあいだ、(比較的)幸せに連れ添れるのだろうか。
30年の結婚生活を通してわたしが学んだことはこんなことだ。
まず最も大切な点とは、
伴侶といえども別の人格を持った人間で、その人の生き方を尊重しないといけない、
ということ。
それは時として、ヒジョーに難しい。
で、ほとんどの場合は・・・はなはだ不可能!
だが、他の人の人生に干渉することこそ人生を複雑化させ、ストレス増加につながらないではないだろうか。
考えてもみていただきたい。
美しいはずの家族関係というのは、実は世の中で一番複雑でドロドロしていて、醜悪状態になる可能性が高い。
それは国際政治問題とかなり類似しているといっても過言ではないのでは。
つまり、自分の陣地を離れ、隣国に勝手に侵入し、色々余計な事をしたり、失礼な意見を言ったりすれば無論紛争に発展する。家庭も同じでは?
自分自身を変えることだってかなり難しい。
それなら(伴侶を含む)他人を変えることなど絶対無理だし、そんなことを企んでも、がっかりするだけ。いがみ合いになるだけ。
だから、しない。負け戦など。
と、いつも心に言い聞かせている。
なぜなら、人生の目的の一つは、自分自身を向上させることにあるのだから。
周りの人もそれぞれ勝手に自己をより高める努力をしたらいいのだと思う。
それじゃあ、努力をしたくない人は?
それはそれでその人の自由意志であるから口出しは無用。
口を挟むなら、必ずや嫌な顔をされるのが見えている。
つまりそれは本人に完全責任を取らせるということを意味している。
私には夫に対する気に入らないところなど真砂の数ほどある。
例えば体重。
彼はダイエットと称して夕食を摂らない。
でもなぜか木の年輪のようにどんどん膨れていく。
毎年ウエストが確実に太くなっているのは誰が見ても顕著だ。
はっきり言って、生半可のメタボ体形ではないよ。
はっきり言って見苦しい・・・。
娘は「ダデイは絶対に外で“こそ食い”をしているに違いない」と真っ向から疑ってかかっていた。
わたしはわたしで、「でも昼間はチキンサラダだけって言ってるわよ」なんて素直に夫を信じようとした。
だが、娘が正しいと分かるまでにそう時間はかからなかった。
さてはドーナツでもむさぼっているに違いない。
やっぱりどう見ても娘が正しい!
実は夫の体重は私の倍以上ある。
運動するように勧めたけれど、(重たいので)膝が痛い、痛いから走れない、とか彼の口から出るのはそういう言い訳だけ。
地下に体操器具があるが使っているのを見たこともない。おなかを引っ込める簡単な体操とかヨガなんかも教えてあげたけど、そもそもやる気なんてまったくないし、やっても持続できない。
この状態が続けば、老後に階段から落ちる可能性は高く、歩行困難にもなるかもしれない、と心配したわたしは、
「あなたを支えないといけないのはわたしであって、でも自分の体重の倍以上ある人を支えてあげることは無理。最悪の場合は二人とも一緒に階段から転がり落ちて病院行きなんだから、どうにかして!」
と脅してみたが、
効き目はゼロ。
何年か前は、いかにも心から心配しているかの様に、
「あなたがいなくなったら生きていけないの」
なんて泣きまねもしてみたが・・・
もう止めた。
諦めたのである。
それで本人がいいならいいんじゃない?
あなたが将来糖尿病にかかり、高血圧になり、コレステロールも急上し心臓病になり、歩けなくなっても、救ってあげれません。悪いけど。
それからその巨体を支えるなんて私には到底無理な話です。
だいたいが夫の家族もみなああいう体形に究極的にはなるみたいで、運命なのでしょう。そういう遺伝子ならやっぱり不可能なのでしょう。
あ~やだやだ。他の人の人生に口出しなんてして!バッカらしい!
そうそうそのままでいいよ。クマちゃんみたいでメッチャ可愛いよ。
うんうん。ほんと。
その後は、体重のことが話題に上ることはなくなった。
ので、私が夫に対して嫌な顔をすることもぐっと減った。
よって、ストレスが半減した!
やった~!
よくよく思うが、わたしの欠点は夫の欠点よりも遥かに多いに違いない。でも夫も諦めたのか何も言わない。だから私ももう言わないのだ。
それに、もしそういう風にできれば、生きていくのがよっぽど楽になるのではないかと思う。
個人的な事に関しては、自由意志を尊ぶという策が平和への直行便だと思う。
ではいつもこのやり方でうまくいくかというと、そうでもない。
もし関係が平行線気味でも結婚は継続可能と思うが、根本的な経済観や結婚観や人生観が同じでないと厳しい。
互いの性格が違うのはOK.
趣味や関心ごとが違うのもOK.
(体形もまあいいかな)
でも経済観と結婚観と人生観が南極と北極ほど離れていたらこれはかなり危険と言える。
摩擦を起こしやすい分野は、経済観念が挙げられる。これはかなり大きい。
そしてそのコアと言える人生観が全く違うとこれもすれ違いの原因となる。
結婚に何を求めているかということにおいても、意見の食い違いが顕著なら✖。
つまり、共同で決断しないといけない分野は、共通点が多ければ多いほどいいということになる。
従って、この部分がしっかり一致していれば結婚は継続が可能で、それも割といい結婚になる可能性が高い。
この部分に限っては、わたしたち夫婦は“なんとなく”一致している。だから30年も連れ添うことができたのかもしれない。
できるなら、もうちょっと欲張って卒寿*を目指してまっしぐら!なんて思っている。
(でも~・・・メタボじゃあ・・・卒寿はちょっと無理があるかしら?)
*卒寿とは90歳のお祝い。