ミシガンはもう既に紅葉最前線。衣替えはほぼ終わりが近づいている。
艶やかな葉が全て地面に落ち雪が舞い降りる前の最後の舞台が目の前で繰り広げられているのだ。フィナーレの開始だ。
ちょっとピリッとする空気の中をジョギングする人や散歩をする人もちらほら見受けられる。
家々の煙突の煙も天に向かったかと思ったがいつのまにか空の中に消えてしまった。
この道の真ん中に立ち止まってぐるっと一回りしてみる。
言葉が消えた。
思考が止まった。
Heavenly.
この道はわたしの大好きな道だ。
今の家に引っ越すことを選んだのもこの道に魅せられたからだ。
重たい気持ちを抱えて何度この道を歩いたことだろうか。
ただただ歩いた。
黙って。
一人で。
涙が溢れて止まらない時も何度あっただろうか。
人には、わたしには悩み事などなさそうだと見えるらしい。
そんなことはない。
当然ある。(あったりまえです!)
どうにもならないことをどうにかしようと悩んでいるからストレスを感じる羽目になる。そして悪戦苦闘の後、やっぱり自分の力ではどうにもならないことがわかると、悔しさと現状への不満から涙が出てくる。
そしてその悲しんでいる自分の心に気づくや否や、ますますストレスを感じる。
悪循環なのだ。
わたしのストレスとは、つまりいつも子供のことだ。
自分の子供といえど、結局自分とは異なり、別の個性を持った別の人格を備えた人なのだ。だから親が何を期待しようとも心配しようとも、彼らは自分の思ったように生きる。失敗も多く。それを背景からただ見守っていることの辛いことよ。
子供はわたしの所有物ではないのだ。借り物の存在なのだ。
それでなくてはいけない。そしてそれが正しいことと分かってはいる。
ただ、母の心はそう簡単に「はいそうですか」とは言えないのだ。
わたしが子供のことを思わない日が今までに1日たりともあっただろうか。
考えると胸が詰まり。そして目頭が熱くなってくるのだ。
そんな飽和状態の心が更にぎゅうぎゅう詰めになると破裂寸前となる。
(もう耐えられな〜〜〜〜い!)
そんな時、わたしは外に出る。
エコセラピーの一種である散歩セラピーに出かける。
歩きながら、地面に当たる自分の足の裏の感触に心を集中し、
パラパラと舞い落ちてくる枯葉に身を任せる。
頬に当たる風の息。
赤くほてった自分の顔とまともな思考状態ではないおつむを一気に冷やしてくれる。
足が意識しないでも勝手に動くようになったら、
何にも感じなくなったら、
胸の鼓動も正常化したら、
さあやっと自分の心に向き合える。
素直な自分になれる。
そして人生は思い通りにできないことがあることを自然は教えてくれる。
ちっぽけな自分のちっぽけな問題を忘れさせてくれるかのような大きな自然の愛に屈服し、少しは心が軽くなったように感じられる。
例え自分の思い通りにならなくとも立ち向かう勇気を与えてくれる。
けれでも、立ち向かわなくてもいいと感じる時も多い。
もう考えることが心から消えてしまったからだ。
心がいい意味で真っ白になると、その空いたスペースにインスピレーションが入り込む確率が高くなる。往々にして、自分の考えで頭が一杯、心が一杯の時は、何にもいいアイデアが浮かばないものだ。一旦、全ての想いを捨てて、空っぽになって初めていい思いつきが出る。
空っぽになり、「天にお任せ」気分になると、なんでも自分で抱え込まなくともいい、解決しなくていいんだ、と認識できる。そして解決しようと頑張っていない時にふと名案が浮かんだりというのもよくある話だ。
ストレスの真っ最中には普通は頭が正常に働かないものだ。それは体が(命の危険に差し障りのある)ストレスをやっつけるためのホルモンを出していて、心臓は必死になって鼓動の回復に携わっている。その期間は、体はそれだけに集中していて頭にエネルギーも血液もよく届かない。だからこんな時は一旦問題から離れ、頭を冷やすことがいい。心を空っぽにすることがいい。
その方法例として、散歩やクラフトなどの繰り返し的要素を持つ活動が効く。
つまり言葉を介入しない活動に従事することがいい。言葉が入ってくると人はすぐに考え事を始め、その結果、こうでもないああでもない、と得意の「悩み」で自己を苦しませるからだ。
心を穏やかにする方法はたくさんあり人それぞれ一番効く方法を選択すればよく、わたしの場合は、散歩などの自然に触れることが挙げられる。
つまりエコセラピーであり、散歩セラピー。
これが今のところとってもいい感じだ。
心のつかえが取れた。
真っ黒になっていたわたしの体のオーラも洗われた。
涙も乾いた。
あの風の仕業に違いない。