大きな違い
日米間の比較文化学で顕著だと思えることがいくつかある。
その一つは宗教観。
日本人と一緒にいると、よくこんな言葉に出くわす。
「なんかヤバい風になってきましたね。」
とか
「大丈夫、危険な新興宗教じゃあないですよ。」
とか
「宗教をやっている人ってちょっと変な人が多いよね。」
とか。
周りに誤解を招かないようにかなり気をつけているように見受けられる。また信じている人を「異物」として排除する空気もかなりある。
でもこういうのはまずもってアメリカにはない。
それは自分の信じていることを堂々と伝えることは美徳と考えられているからだ。
どんなに敵を作っても構わないほど勇気のある人は尊敬されるのだ。
大衆がその人の言うことを信じなくともいい。その堂々とした態度が周りを黙らせるのだ(と言っても敵は山ほどいるのだが)。
堂々と生きること。
自分の信念を命をかけて貫くこと。
それがここでは「尊敬されるような生き方」とみなされる。
だが、日本ではなぜか遠慮しないといけない。
本音は信じているけれど、建前の無宗教無神論者で通さないと社会から村八分になるような気がするのであろう。狭い日本列島で村八分されてはたまらない。
だから個人よりも社会全体の流れや意見の方が大切になってくる。
それでこのような文化にすんなりと難なくフィットできる人はそれはもう
「おめでとうございます」
だが、
フィットできない人はどうするのか。
肩身が狭いと感じている人も多いのではないか。
息苦しいと思うこともあるのではないか。
実際、アメリカでは神を信じたり、特定の宗教団体に属したりすることは、極めて普通のことなのである。かえって好まれる。
それでは統計的に彼らの信仰心を見てみよう。
アメリカ人の信仰心:統計学的見地からの考察
神の存在を100%心から信じている人:63%
神の存在をほぼ信じている:20%
神を信じているが、いつも絶対というわけではない:5%
神を信じているが、それが具体的にどういうことかわからない:1%
無神論者:9%
その他:自分が神を信じているかどうかがわからない:2%
これによると、レベルの差あり、
90%近くが神を信じていることになる。
そしてこの信仰心100%を示した63%の市民のほとんどはどこかしらの宗教団体に属し熱心に実践している人たちだ。いわゆる日本でいう「宗教をやっている」人を指す。
これがアメリカ人の本当の姿なのだ。
本当の姿
この国の人の本当の姿は、日本人が憧れているアメリカ人の姿とはかかなり違う。
「神」や「精神文化」を大切にする人が多い。
「信仰心が篤い」人が多い。
彼らの信仰とはイコール生きること自体に他ならない。
彼らは日本人のように異なる宗教行事をごちゃまぜにすることもない。
彼らにとって宗教や信仰とは大変神聖なもので、茶化したり、面白がったりするものではないのだ。
12月25日は恋人と一夜を過ごすロマンチックな行事ではなく、家族と厳かに過ごすときなのだ。自分を救ってくれた救世主の不思議な誕生に心を馳せる日なのである。
西洋人が不可思議でならない日本の風習がある。
宗教を馬鹿にしたりする人でも結婚式はキリスト教会で行なったりすることが挙げられる。
こういうのはアメリカにはまずない。
信じていない人がその教会で式を挙げることは、その宗教に対する冒涜に他ならないからだ。
教会でしようが、寺院でしようが、それは個人の勝手であるが、アメリカでは、それは全て信者の宗教観から決めていることだ。「素敵だから」と言うのは考えられない。
無信者が十字架のネックレスを首につけるのも大変失礼である。
さらに、アメリカ人に自分の宗教について説明をお願いすると、ほとんどの人はきちんと説明ができる。
反対に、日本人に同じような質問をすると、
「うちは浄土真宗。。。だと思う。」
「じゃあ、浄土真宗は何を信じているか説明してください。」
「・・・。」
となる。
何も知らない人が多いようだ。
これに対して恥ずかしくないのだろうか?というのが外国人の味方だ。
大変優秀な日本人が全く答えられないと、日本びいきの人でも興ざめすると聞いている。日本の国家宗教は仏教だが、仏教には素晴らしい教えがたくさんある。それを知らないなんてなんともったいない話ではないか。
(実は私もず〜と前に禅宗のついて聞かれたが何も答えられず恥ずかしい思いをしたので、少々勉強をさせていただいた。こんな素晴らしいことを知らなかったなんて今までなんと損をしてきたのか!とつくづく感じるに至った。)
このように、日米の宗教観および信仰心の違いは顕著である。
理由
その理由は多くの背景が考えられるが、一つに建国の思想が異なることがあげられる。
現代アメリカは開拓者が「理想郷」を目指して作り上げた国だ(これに犠牲となった先住民の存在もあるが、これは別の機会に触れさせていただくことにしよう)。
古い世界で宗教迫害を受けてきた人々の新天地だったのである。
入植者たちはみな宗教心の強い人々で子孫代々にわたり祖先から続いている伝統をバトンタッチさせようと努力を厭わない。それは大変根深い。
日本との違いは、「うちはナントカ宗」と言うだけでなく、幼児の時から教義を教え実践している。彼らにとって宗教とは日々の食事と同じくらい大切なのである。そして神の存在を信じる信仰心はひとえに篤い。
だからと言ってアメリカ人が完全と言うわけではない。
そもそも、人は完全になどなれないのだ。
そのことを理解しているためか、「不完全」に対して日本よりは寛容に見える。
観念の違い
日本では「宗教をしている人は立派な人でないといけない」と言う風に誤解されているようだが、特にキリスト教では「一気に完全な人になるように」などと言う無理な注文を出しているわけではない。
完全な人間はいなく、だから間違いを起こす。その罪のために贖い主キリスト様と言う方がおられ、彼の哀れみにより人間は赦される。彼は世のすべての人の苦しみや悲しみや罪を受けて十字架にかかった、と言うのが宗派の違いはあれど、根本的な原理である。憐れみと赦しの宗教である。彼らが日曜日に教会に行く理由は、自分たちの神に感謝し、罪の赦しを受け、新しい週に先週よりよりよく生きる決心を新たにするためである。そして互いに慰めあうためである。
仏教、特に禅宗は米国でも大変人気があり、座禅を実践するだけでなく、かなり熱心にその本髄を研究している人が多々いる。禅宗は心を科学的に捉えていて、心のコントロール法を教えている。それにより、どんな事態になっても心の均衡性を保つことが可能になるため人気がある。
どの人の人生にも痛みがありそれは避けられない、今までになくとも、いつか必ず訪れるものだ。確かに全体的にポジテイブな人はいるが、なんでも自分の力で克服できる強い人などいるのだろうか。そういう時のために、宗教があるように感じる。それは生きる目的を教えてくれるからだ。耐える力を与えてくれるからだ。またアメリカでは宗教団体は規模が大きく、その中で、精神的、肉体的、経済的な援助も得られる仕組みになっている。運命共同体に福祉活動がくっついたNPOと言える。行政も家族も助けてあげれない状態で、経済的にも無理なら、教会が助ける仕組みになっている。それはこの広い北米大陸で誰も孤立して生きて行くことができないことを彼らは潜在的に知っているからであろう。
こんなことを言うと、ある種の日本人は「宗教なんて弱虫のやることだ」といとも簡単に片付ける傾向がある。これに対してアメリカ人は「神を信じているから、不可能を可能にすることができるのだ。弱い人間の力なんて限られている。だが万能の神にはできないことがない。」と応答するであろう。
彼らは神と共に生きることにより、重荷を担ぐ力を得ているのである。他の言葉で言うならば、神が人の重荷を一緒に担いでくれているので、そう重く感じられないということである。それが彼らの信仰なのだ。これを日本では「他者に頼る弱い人間」と言う人もいるが、果たしてどちらが本当の意味で強く、充実した人生を生きているのだろうか。
結論
どの宗教にもどの教えにも素晴らしい概念があり、それぞれ問題もないわけではない。
その良いエッセンスを上手に取り入れられるなら、またそれで幸せになれるなら、それに越したことはないのではないだろうか。
それに、すべての人には信仰の自由があるわけだから、信じたい人は信じればよく、周りの人が「それはおかしい」などと馬鹿にしたりするなどもっての他と思う。全てにおいて周りと足並みを合わせる必要はなく自分の心が納得することを選ぶべきで、周りの人も他人のことにとやかくいうべきではないのだはないだろうか。
各人の意見に完全に同意する必要はないが、尊重することは共存していく上で必須のように思われる。アメリカは多様な文化の集合体なので、違いを尊重しなければ、共存が不可能だ。日本は国際化していると言っても基本的に多民族国家でも多文化主義でもないため、異なる考え方や生き方を受け入れる真の心の広さがなかなか育ちにくいのかもしれない(たとえ受け入れていると言っても表面だけを引っ掻いているだけのように見受けられる)。
国際社会に日本が今後も参加する意志があるなら、この面を改善すべきではないかなと思う。日本には良いところがたくさんあるが、日本の常識は外国の非常識となることも多いからだ。存続のためにも鎖国文化はもはや通用しない。
と感じる。