舅は自給自足を実践するタイプの人だった。
そういう人は野生的でおおらかなイメージかもしれない。
でも実は
かなり神経質な人だった。
ほとんど笑った顔を見たことがない。
一生不幸そうな雰囲気だった。
だから人が寄り付かない。
とにかく全てのことに神経質になっていて
愚痴が多かった。
そんな彼が亡くなる前に人が変わったように幸せそうな顔つきになっていった。
それはこういうことによる。
姑が老人ホームに入ったことをきっかけに、
数年後に彼も家を売り、自家用車も売り、所持品の95%を処分し、妻のいる老人ホームに入所した。
残った財産(退職金と年金)は全て老人ホームに渡した。
所持品はダンボール数箱のみ。
大切なものだけ。
ダンボールの中身は家族の写真や法律的な書類。
少量の服。
それだけだった。
彼はこの世のものに決別をつけて初めて幸せになったのだ。
ものがないということはメンテナンスがない。
心配するものが少ない。
おまけに老人ホームの職員がなんでもやってくれるときている。
自分の人生に責任を取らなくていい時がやっと訪れたのだ。
彼は全てのしがらみを捨てた。
何も望むものはなく
ただその日を笑顔で過ごすこと。
それだけが日課。
そして数ヶ月後に彼は病に伏し、そのままこの世を去った。
遺書に、確実に死が近づいた時には数日の命を伸ばすためだけに救命しないで欲しいと書いてあったので、家族と医師はその希望に従った。
彼は自分の入る棺も墓もすべてあらかじめ決めてあり費用も払っており、自分の葬儀の段取りまで決めていた。
最期まで責任感のある生き方を貫いた人だった。
舅の最後の笑顔を考えると
人はシンプルに生きるべきだとつくづく感じる。
そういえば彼はわたしたちが若い時に常にそう言っていた。
「シンプルに生きるのが一番いいんだよ」と。
それが今となってはよくわかる。
ものがしがらみで、
思い出もしがらみになる。
ものにも思い出があるから。
オーバースケージュールもしがらみ。
全てを諦めると見えてくるものがあるのかもしれない。
しがらみが捨てられるときこそが悟りの境地に至ったときなのだろう。
そして人生の目的がなんであるかその時に完全に理解するのだろう。