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ミモザのアメリカ言いたい放題!

米国情勢下のダブルエコライフ

ヘンリー・デビッド・ソローのシンプルライフに思うこと

 

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(出典:https://www.metroparks.net/blog/happy-birthday-henry-david-thoreau/

 

随分前の事になる。

留学先の大学の英文学のクラスでヘンリー・デビッド・ソロー(Henry David Thoreau)について学んだ。

読書課題に彼の作品の一部があったのだ。

「ウオールデン森の生活 (Walden: or The Life in the Wood)」という著書だった。
残りの課題は何だったのか全く覚えていないが、彼については未だに記憶に留まっている。

 

Henry David Thoreau:マサチューセッツ州出身の思想家、詩人、博物学者。

1817年生まれ1862年没。

彼は28歳の時に物質主義社会のもたらす病いを避けるようにこのウオールデン湖畔にやってきた。そして自分の手で家を建てた。

 

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(出典:https://www.apartmenttherapy.com/first-tiny-house-henry-david-thoreau-255479

その家の面積は500 sq ft (46平方メートル)とかなり小さい。

けれども彼は生きていくのにこれで十分だと説いた。

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(出典:https://www.apartmenttherapy.com/first-tiny-house-henry-david-thoreau-255479

この小さな小屋での簡素な自給自足の暮らしを彼は2年間営んだ。

そしてそこでの経験や思いを綴ったものが後に書籍として出版されるに至った。

 

現在でこそ、スモールハウスムーブメントという名称までできているが、あの当時は家の大きさイコール人物の偉大さ及び成功の象徴であり、誰もの憧れだった。だから彼の思想は非常に新鮮だった。

 

彼は著書の中でこのようなことも語っていた。

「胸に思い描いたままの人生を生きよ。

今心配していることは自然と解決するものだ。現に自分の身にそういうことが起きた。」と。

小さな家を自分で建てて森の中で自給自足の生活を営むことが彼の思い描いたままの人生の一コマであったのだ。

 

偉大な人というのはどの時代でもどの地においても似たようことを考えるものである。

彼らの生き方に共通することはやっぱりひとえにこれではないだろうか。

 

自分の心に正直に生きている。

それが彼らにとって雄々しく生きることを意味する。

 

そのため命を縮めることにもなったケースも多々ある。

 

ソローはこうも語っていた。

「人は死の間際になって初めて本気で生きてこなかったことに気づく。」

 

自分は本気で生きてきたのだろうか。

今、そうやって生きているのだろうか。

 

ただなんとなく生きているだけのことの方が多いのではないだろうか。

彼の生き方には考えさせられる。

 

わたしもいつも自分に言い聞かせていることがある。

もしやりたいことがあるならやった方がいい。

失敗を恐れてやらないよりはやって失敗した方がいい。

特に若い時は。

 

わたしは高校生の時に担任に留学がしたいと告げた。

それを聞いて担任は非現実的だと言ってすぐに却下した。

でも人に言われたからとそう簡単にひるむような性格ではなかったので、それならいつか絶対にやってやると心に決めた。でも高校卒業後すぐは無理だとはわかっていた。

先立つものがなかったからだ。

それでまずは国内の大学に進学しようと思ったが、これも先立つ物なしで前途多難。

孤児の大学進学率は低いし、入学したとしても卒業する数はもっと少ない。

どうやって自分の目標を達成しようかと案を練っていた。

最終的に解決策としてまっすぐ留学を選んだ。あの当時はアメリカの大学の方が学費が安い上、丁度留学もしたかったので、この方法で一石二鳥を捕ることにした。当然誰も助けてくれる人はいないので、一生懸命お金を貯めて行った。

その後結婚もしてしまったけれど、随分たってから修士号に進み、博士号も取ってしまった。(特に役にたってないんだけれど。大汗・・・)

自分の例でおこがましいのだが、

本当にやりたかったら道は必ず開けるとわたしは信じている。

 

と言っても残念なことに今は随分慎重派になってしまった。

でも自分の子供たちには言い聞かせている(従っているかどうかは謎だけど)。

勇気を持って進みなさいと。

「完全な安全」など存在しないのだから。

安全ばかり狙うなら何もしない人生になる恐れがある。

でも何もしなくとも

明日あなたは死ぬかもしれない。

交通事故も十分考えられる。

 

やらない言い訳は見苦しいと言われても仕方がない。

だから今日やると決めたことは成し遂げ、

自分の良心に従い後悔のないように生きたいものだ。

 

ソローのような生き方を完全に真似ることは無理だが、

そこから学ぶことはたくさんある。

何よりも彼の名言は今もわたしの心の中で生きている。

 

 

 

 

 

洗顔石鹸なんていらない

 

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(出典:https://en.m.wikipedia.org/wiki/File:No_soap_operas.jpg

わたしは洗顔石鹸というものを使っていない。

このあたりは乾燥しているので、どんなに弱い液体石鹸を使っても皮膚が乾燥する。

そのため石鹸を使うことは皮膚の老化に拍車をかけることになる。

(イコール、シワの増加につながる)

だから石鹸会社には申し訳ないが完全にやめることにした。

 

代わりにハチミツとココナッツオイル/オリーブオイル

を使っている。

え〜?

ハチミツって食べ物でしょ?

そうです。

でも食べ物でも他の用途に使えるのですよ。

石鹸と違い肌に優しく乾燥を防ぎいいことばかりです。

 

ではその洗顔用使用方法からご説明。

 

1。顔面をぬらす。

2。はちみつは小さじ5分の1位を左手のひらに取って右手の指で潰して溶かす。

3。よりしっとり感が欲しい方はココナッツオイルやオリーブオイルを1滴ほど足して混ぜる。

4。2または3を顔につけて、優しくマーサージ

(しばらくそのままのせておくと尚いい)。

5。ぬるま湯ですすぐ。

6。軽くタオルで拭く(ゴシゴシ拭かない)。

 

はちみつは通常は食べ物だが皮膚にもとてもいい。

エジプトのクレオパトラも愛用していた。

傷や火傷や痛みやできものなどに効用があるからだ。

(https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC4837971/)

 

 

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わたしの使っているハチミツはマヌカハニーと呼ばれておりニュージーランド産である。(上のブランドは、340グラムで30米ドルほどのお値段。つまり日本円で3000円くらいなのでかなり高め。国内産でこれに近い品質のものもあるのでそれでもよし。大切なことはプロバイオティクスが入っていること。茶色のハチミツではなく黄色の結晶入り純ハチミツがお薦め。)

 

2007年にマヌカハニーは米国食品医薬品局により傷の治療の一選択肢として認可された。

ハチミツは抗菌や抗酸化剤の特徴を持つ。水分を維持しながら皮膚を保護するためのバリアを作り、感染を防いでくれる。

(https://www.accessdata.fda.gov/scripts/cdrh/cfdocs/cfpmn/pmn.cfm?ID=K133729).

 

様々な研究結果によると、マヌカハニーは怪我の治療を促進し、生体組織を再生し、火傷の患者の痛みの軽減にも役に立つ。(https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/289012553; https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC3941901/).

 

例として、40人の治癒前の傷につけたところ、88%がサイズにおいて改善が見られた。さらに、傷の治療にふさわしい酸性の環境を作ったことにより治癒期間も著しく短縮された。  (https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/25386217).

サウジアラビア(https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/25386217)及びギリシャ(https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/229853367)の研究によるとマヌカハニーは糖尿病性潰瘍腫瘍にも効く。

   

また、手術後の傷の治療にも効くことが発見され、化学物質の軟膏を塗った場合は皮膚の表面が硬くなるが、マヌカハニーを塗った場合は皮膚の柔軟性を維持することができていた。 (https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/27429228)

なぜこのようなことが起きるのだろうか。

それは

このマヌカハニーの効果は 抗生物質耐性株(プロバイオティクス)の黄色ブドウ球菌などによるところが大きいからだ。 (https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC3922154/; https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/28438282)

 

またはちみつは炎症にも効く

娘の炎症性ニキビの回復に、同量のハチミツとシナモンを混ぜたものを塗って数時間放置したところ、大きな改善が見られ特に赤みがかなり引いた。

火傷や傷が治るなら、ニキビや炎症にもいいなら、シワやシミにも効果があるはず!

はい効果ありますよ!

 

ハチミツは素晴らしいよ!!!

洗顔石鹸などいらな〜いよ!

 

店で化学物質ざんまいの石鹸などを買わずとも台所用品で多くのことは済ますことができることを人は忘れているのだ。もちろんナチュラルに近い洗顔フォームなども売っているが、自分で作ることができれば使用期限などの心配はないし、もしも合わなかった場合も無駄がない。もしハチミツが自分の皮膚に合わなく捨てたとしても、自然破壊に繋がることもない。エコでナチュラルな方法ではないだろうか。

大体が常に思うことだが、

人間というのはオーガニックな物体なのに、なぜーガニックではないものを体にいれたり付けたりするのだろうか。そんなことをすれば体が拒否するのは目に見えているとちょっと考えればわかるようなことだ。

娘は皮膚が極度の過敏症で、ほとんどの化学製品に反応する。炎症を起こしてしまう。つまり体が「やめてくれ〜〜〜!」と悲鳴をあげているのだ。でもこれはただ単に自然の摂理ということだけ。

よって、今では皮膚に塗るものは全てナチュラルで、奇跡の改善を見ている。

もちろん医者にそんなことを言った暁には怪訝な顔をされ「信ぴょう性に欠ける」などと反論された(医者のプライドをぶっ潰したから?)。

でも、はっきり言って効けばなんでもいいのである。

 

美容や健康に興味のある方にぜひおすすめしたい1品である。

ハチミツは常備薬!

 

   

 

人間関係のシンプル化も大切?

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(出典:https://introductiontohumancommunication.files.wordpress.com/2012/02/cropped-c12.jpg

わたしは

悪いけど

あまり意味のない人間関係は避ける主義だ。

もちろんどんな人も師匠とみなすことが可能で学ぶべきことは必ずある。

人を助けてあげるべき時もある。

でも

人生の中のある地点で自分の立ち位置と相手の立ち位置が大きくずれていっているように感じる時がある。

そんな時は、もうこれ以上関係を持続させることは不可能なのだ。

これには友人だけでなく家族も含まれる。

 

友人の例

わたしの職場に以前よく話をしていた女性の同僚がいる。

彼女は独身で毎年欧州に海外旅行に出かけるのが趣味。

その理由は「欧州の雰囲気が好き」だから味わいたいらしい!

毎年、「今年の欧州旅行」の土産話をしてくれるが、あくびが出るほど退屈!

その国の政治状態とか社会とか深い文化的な事とか知り合った現地の人の事でも話してくれるものかと期待していたが、何年経ってもそれはなかった。

そういうことには興味がないのだろう。

 

彼女の人生はわたしから見ると

ひとえにラクチン!

 

世話をしないといけない子供がいるわけでもなし。

伴侶がいるわけでもなし。

海外にいるので年老いた親の世話とかもなし。

不動産があるわけでもないので家のメンテナンスもなし。

車はリースなので修理はなし。

貯金もたんまりあるし、

残りは趣味に消えているようだが

借金もなし。

大きな健康問題で今困っているわけでもなし。

 

可愛いお菓子を焼いてはワイワイいっている。

あの時40歳くらいだったけれど、精神年齢は23歳に見えた。

悩みなど何もなさそうだった。

 

確かに彼女は明るく楽しい人だ。

ワイワイキャーキャー言っていて

可愛い性格だと思った。

でもそれだけ。

 

自分はそれとは反対に

健康疾患と発達障害の子供に囲まれ、

それに対応するため悪戦苦闘の日々だった。

1エーカーの庭とアメリカサイズの家の手入れ。

それにフルで仕事もしていて

勉強もしていた。

だから彼女がウキウキと語ってくれる可愛いお菓子の話などだんだん聞きたくもなくなってきた。大体が人のレシピで作ったものをフェースブックにアップしているだけ。それに何の価値があるのか???

それでも波風を立てないために「わ〜可愛い〜。素敵!」とかわたしも調子に乗って騒いでみた。

 

でも

アホらしい!

と実は心の中ではそうつぶやいていた。

それにはっきりいって時間の無駄。

こんな会話をしていても得るものはゼロ!

与えるもの?

彼女はわたしの「辛い人生話」に興味はないから、こちらから与えるものもナシ。

 

彼女は職場を変え、

その後音沙汰は消えた。

それで全く問題ないと感じている。

私たちの間には「日本人女性」以外の共通点はないからだ。

でも確かにアクのない典型的な大和撫子でとてもいい人だった。

 

家族の例

我が家の子供達は20代で一応全員大人である。

でも大人からはかけ離れていると常に感じている。

だから、ついつい「賢明な助言」という名の「いらぬお節介」を焼きたくなってくる。

でも一応大人なんだからと、人の人生に口出しをしないように極力気をつけている。

わたしの子供は自分から生まれた人間ではあるけれど、根本的に自分とは異なる人間なのである。つまり他人、イコール他の人間。だから異なる考えを持っていてもそれは当たり前のことで親は受け入れないといけないのだ(当然気に入らないけど)。

わたしの人生の責任は自分自身にあり大人になった子供たちにはない。

教えられることは教えたし、それに沿うことが嫌ならそうすれば良い。親には関係がありそうで関係がなく、子供の選びは親のコントロールが及ぶ範囲にはない。

だから遠目で見ることにしている。

(もしこれができたなら、親という難関大学に所属している方のストレスの9割は消えていくと保証できる。)

 

伴侶もこれに準ずる。

大人なんだから夫のやり方を尊重すべきで、ほとんど何も言わないで、「ふ〜ん、そうなんだ」とだけ言う。

 

そうやって家族を遠目から見るようにしている。

家族の人生を近くで見ないで遠目で見ることはシンプル化のステップではないだろうか。それは家族に起きていることの全てを自分のことのように取らないことを意味する。

自分の家族の人生の選択に口を挟めば、それは自分の問題となり、自分の生活の複雑化につながる。

で、実際、自分が果たしてどのくらいこれを実践できているかというと・・・

 

実は(ず〜っと)現在進行形状態(汗)!

でも筋トレと同じで実践すればするほど実践力が向上(するはずなんだけど・・)。

 

継続は力なり!

努力は人を裏切らない!

を心に留めて日々前進あるのみ。

 

結論

本当のシンプルライフには物質のみに限らず人間関係も入る。

人間関係のシンプル化とは、意味なしの人付き合いを減らすことがまず第一だ。

自分の立ち位置とかけ離れてしまった人間関係は生活を複雑化させる。無理やり合わせないといけない(個人及びグループも含む)「付き合い」は精神的にきつい。

それは自分の頭(マインド)と心(魂)が分離されどこかで折り目をつけないといけないという焦燥と困惑が自分の中で起きているからである。

だから精神と健康の両方に悪い。

 

もしどうしても維持しなければいけないようなら、「遠目から見る」方法で対処するのはどうだろうか。

 

つまり自分の感情

その人物及び出来事から切り離して

遠くから観察するのである。

 

第二に他人の人生に口出しをしないこと。

口出しは紛争につながり結果的に自分の心の均衡性を失わせることにつながる。

国際間の紛争もこれにしかり?

 

もし自分の人生をより平穏に生きたかったら、人間関係のシンプル化は必須であるように強く感じている。

どうだろうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

自然と生活の音を聞くことは心の声を聞くことにつながる

街には様々な人口音が入り混じっている。

面白いといえばそうかもしれない。

でも騒音に慣れてしまうのも怖い気がする。

 

最近は、静寂に耐えられない人が多い。

すぐに音楽をつけたりとせわしない。

 

実はわたしも、あまりの静寂だと落ち着かなくなってきてついつい何かの音が恋しくなってしまう。何かしながら音楽を聴くことも多かった。

 

でもある日、常に人口音に触れていると、自分の声が聞こえなくなるということに気がついた。

音楽を聴いたりすることにより、自分の声を打ち消していたのだ。

その事により自分を見失ってしまっていたかのようだった。

それで意識して何も聞かずにいる努力をしてみた。

すると自然の音や生活の音が耳に届くようになってきた。

 

音楽をつけなくとも自然の中に音楽があり、生活の中にも音楽がある。

それはあまりにも静かすぎて気をつけていないとうっかり聞き漏らしてしまいそうに小さな音であることが多い。

 

なんと美しい旋律なのだろうか。

なんと穏やかでなつかしい音だろうか。

子供の時に無くしてしまった忘れ物を見つけたように感じる。

 

 

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(出典:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/ab/William_McTaggart_-_Spring_-_Google_Art_Project.jpg/300px-William_McTaggart_-_Spring_-_Google_Art_Project.jpg

自然の音。

 

雨の音

風の音

雷の音

雪の音

川のせせらぎの音

木の葉の落ちる音

鳥の声

どんぐりを探すリスの足音

 

今それらの音を黙って聞くことがあるだろうか。

 

ザーザー

ピューピュー

ガラーン

シンシン

シトシト

サラサラサラ

ザワザワ

ヒラヒラ

コッコー

カサカサ

 

豊かな音。

清らかな音。

 

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パン焼き。(出典:http://1.bp.blogspot.com/-sfT8jy6MWHE/UAhSpcYrt-I/AAAAAAAAHII/4-C8wQ98G-I/s1600/Helen+Allingham+-+Baking+Bread.jpg

生活の音。

 

洗濯物をたたむ音

窓を開ける音

布団を叩く音

テーブルを拭く音

食器がぶつかる音

台所の水の音

料理をする音

ほうきで床を履く音

クローゼットのドアを開ける音

タンスを開ける音

歯磨きの音

服を着替える音

猫の喉を鳴らす音

 

口をつぐみ

今するべきことをゆっくりやってみる。

そして音に耳を傾けるだけのこと。

音がわたしの心にこだまし

騒がしいわたしの心は黙りこくり

ふんわり軽くなってくる。

 

カタカタ

トントン

コトコト

グツグツ

ギーギー

パンパン

コンコン

パサッパサッ

スースー

キュッキュ

 

幸せな音。

家庭の音。

 

自然は自分に素直に生きていて自分の音を持っている。

生活の音も飾り気のない素直なそれ自体の音。

マインドフルな音。

 

人もマインドフルに生きると、自然や生活の音に心を留められるようになってくる。

そして次第に自分の声も聞こえるようになってくる。

 

自分の声を聞くためには

自分に素直に生きることが必須。

 

素直に生きるためには

今の自分の心に耳を傾けること。

それがマインドフルに生きること。

 

マインドフルに生きるということは、

今この瞬間に起きていることを全六感で受け止め、感じること。

丁寧に生きることでもある。

座禅をくまなくともできること。

 

自分の声。

それを聞き分けることができる人は少ない。

だから今この時だけ

思考を雲の中に追いやり

耳を澄ませてみて。

 

 

 

 

 

 

ウツからの解放はシンプル

ウツからの解放は意外とシンプルである。

うそ〜、とあなたは言うかもしれない。

 

実際、解放されたい方は既に様々なことを試しているというのは存じている。

それでも解決策が見つからないと言われるかもしれない。

そういう方は本当はウツから解放されたくないのかもしれない。

どうだろうか。

 

ウツの最初は感情が揺れることから始まる。

誰でも感情が揺れる時はあるもの。

誰でも感情が落ち込むことくらいある。

ただこれが長引くと「ウツかも」と言われる。

これが何年も続くと本格的に精神病扱いになる。(やばい?)

 

では、ウツになるとどうなるか見てみよう。

まず ウツになると何もする気が無くなる。

つまり動きたくなくなる。

座ってばかりになる。

よって心臓を含める体全体の筋肉が衰えて行く。

だから行動量がどんどん減って行く。

そして達成感のない日々に落ち込んで行く。

そのことによりウツが悪化して行く。

ウツー>動かないー>ウツ悪化ー>動かないー>ウツ悪化ー>

というように終わりがない。

これはしんどい。

だからこれに耐えられなく人生に終止符を無理やり打つ(ウツ?)人もいる。

 

これはエネルギーの法則から見るとこういうことになる。

 

体にはエネルギーセンターと呼ばれるものがありそこにエネルギーが凝縮している。

大まかに分けると全部で7箇所ある。

精神身体ともに健康な人はこのエネルギーの動きが活発でバランスが取れている。

 

でもウツの人の特徴はこれとは異なる。

上半身(特に頭)のエネルギーのみが活性化している。

そして下半身のエネルギーは動いていない。

こういう人は考え事が多いのである。

 

だからウツになると頭でっかちになりやすい。よって悩みが多い。

あなたのマインド、つまり脳があなたの心を支配していることになる。

こうなると、怖くて何も行動する勇気が起きない。

 

だからバランスよくエネルギーを身体中に循環させることが効く。

まず起きた時にタラタラと動かない。

 

もしあなたの足が動くなら、

いきなり起きて、着替えをして、トイレに行って、水を飲んだら、外に行こう。

そして走る。

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(出典:https://content.active.com/Assets/Active.com+Content+Site+Digital+Assets/Running/Articles/An+Ode+to+Slow+Runners/runner-carousel.jpg

この全ての工程をタラタラとやってはいけない。

さっさと何も考えずにするのだ。

そう感情に支配されないように何も考えないのだ。
嫌だとか寒い、とかいう感情が浮かんできたら、即刻抹消すべし!

 

途中で速度をいくらでも落としてもいい。

でも完全に止まってはダメ。

縄跳びでもいい。

とにかく動きまくる。

最初はゆっくりとマイペースで始めてもいい。

このことによってエネルギーが身体中に回る。

脳にも酸素が行く。

セロトニンも分泌される。

そしてこのような達成感はあなたの心を元気にしてくれるだろう。

確実に気持ちが変わるのを感じることだろう。

 

これを一日するのは誰でもできる。

毎日することがコツ。

そしてあなたのウツは次第に影をひそめて行くに違いない。

 

ご存知のようにアスリーツは肉体のトレーニングを毎日怠らない。

けれども彼らのトレーニングは肉体だけにとどまらず精神にも及ぶ。

過酷なトレーニングだけでなく本場でも勝つには精神も強固でないといけないからだ。

 

スポーツはいつも勝ち負けの世界である。甘えは許されないのだ。

敵は一人ではない、一番の敵は自分自身なのだ。

彼らは常にストレスにさらされている。でもウツなんかになっている暇はないのだ。

彼らの精神は強固である。

彼らに見習うところは大きいかもしれない。

 

アスリーツのようになれとは言わないが、

もし心を変えることができなければ体から始めてはどうだろうか。

とにかく座り込んではだめ。

外に走りに行ったりが向いていないなら、家の整理整頓をお勧めする。

よく成功哲学に、「フットワーク」を増やすことが提案に上がっているが、これがそれである。

フットワークとは、実際に足を動かすことである。

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実は私も週に5日、かなりゆっくりだけれども走っている。もっとも10分から15分だけ。心臓と残りの筋肉を衰えされないように、またリンパ液を流すために実践している。他にヨガもちょっとだけ。体のために実践しているのだが、結果的に精神にも良い影響を及ぼしていると感じている。

運動は養護施設にいた時に習慣づけられたから特に苦にはなっていないどころか、その習慣に感謝しているくらいだ。

孤児はウツになっても助けてくれる人などはいない。可哀想だなんて言ってくれる人もいない。精神を病めば、言われることは「やっぱりね〜。育ちが悪い人は内面に問題があるのよね〜。」と片付けられてしまう。

だから自分で自分の心を強く保つようにしないといけない。孤児には甘えは許されないのだ。逃げたら終わり。真正面から人生と向き合っていかないといけない。それは時として非常にしんどいことで、こんな風にずっと頑張れないと思う時もある。

でも私は何となく感じていることがある。こういう人生を生きたいと自分であらかじめ選んでこの世に生まれてきたのだ。だから向かって行くしかない。向かい風だろうが何だろうが、逃げられないのである。ウツなんかになっている場合じゃあないのだ。

 

でもこんな風に死ぬか生きるかみたいな面持ちで生きていると、やっぱりストレスになる。だから自分の精神を鼓舞してチャレンジに立ち向かうようにはしているけれど、それをなるべく緊張しないようにやることがコツだと感じている。

つまり状況を必死になってコントロールしないようにしている。自分でできることはやって、あとは結果に任せるようにしている。

ゆるく、楽しく、良いことも悪いことも感謝!とこれが私のモットーなのだ。

 

それでも座りっぱなしになると、

ウツにはならなくとも当然やる気も失せ消極的になってくると感じるのです。

 

だから動く!

これしかない!

Emotion (感情)はMotion(動き)

で変えられるのです。

 

さて、雨がやんだので走りに行こうかな?

かなり寒いけど、そんなのへっちゃら!

どんとこい!

 

 

 

 

 

 

 

孤児の幸福の見つけ方とは

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(出典:https://levlalev.com/wp-content/uploads/2017/05/orphan-girl-crying.jpg

幸福は自分次第、つまり心持ち次第だとは、頭ではわかるけれど、

実際のところどんなに頑張っても幸せだと感じれない時もたくさんある。

努力が報われない時。

子供が反抗する時。

家庭や職場に問題がある時。

自分が病気の時。

家族が病気の時。

仕事を失った時。

つまり自分の人生がうまく行っていないと感じる時であり、

現状がこれからも続き、希望が持てないと感じる時に、人は不幸だと感じるのではないだろうか。

 

でも多分人生とはこういう風にできているのだと思う。

どこを探しても、理想的な人生を生きている人はいないと確信している。

たとえ外側はそう見えたとしても、そんな完全な人生は存在しないのではないだろうか。

 

だからまず最初にその現実を受け入れることが大切ではないかなあと思う。

ジタバタしてもどうしようもない時もあるのだから。

************************

私は、4歳の時に両親がいきなり亡くなってしまった。

その後引き取ってくれるような親戚は現れず、私は孤児と呼ばれる運命を歩むことになった。そのため、里親制度と養護施設というシステムの中で子供時代を過ごした。

まさにジタバタしてもどうしようもない状況だったのだ。

 

養護施設に入所してから自分の生活が学校の同級生とははるかに違うことがわかってきた。でも「普通の」子供たちがすごく羨ましいと思ったことはおそらくないと思う。ただ惨めさを時々は感じてはいた。

例えば「いつも同じ服を着ているね」などとからかわれたり、活動に必要なものを揃えるお金がなくて恥をかいたりはあった。環境が違うので同級生と話が合わなく違和感を感じたこともあった。どうやって自分の境遇を隠すか、といつも神経を尖らせていた。

あの当時の養護施設では、服や靴は年に二回支給されていた。子供の足はすぐ大きくなるので、通常履ける靴は一足しかなく、濡れるとおしまいで代わりがない。翌日も濡れたままの靴を学校に履いていくこともあった。食事以外は全部自分たちでした。職員の方々はそれなりに思いやりのある方がほとんどだったが、児童虐待は普通で、そこに愛というものが存在しているとは感じたことはなかった。それでも住むところがあり食べ物を与えてくれて学校にも通わせくれてありがたく思っていた。ただ精神的に辛かったのだと思う。

 

子供にとって「天涯孤独」という言葉は大変怖いもので、私はそんな境遇にあって、どうやって人生を切り開いていくか考えるだけでも圧倒されそうに感じていた。

だからひたすら希望を捨てないで生きていこうと自分に言い聞かせていた。それでも、不安に打ちのめされそうになったり、変えられない境遇に悔しくてよくメソメソと泣いていたものだ。

でもある日、泣き腫らした自分の顔を鏡で見て、そんな風にいつも泣いている自分に嫌気がさしたのだ。その日勇気を奮い起こして、ずっとこんな風に惨めなままで人生を終わりにしてはなるものか、と心に固く誓った。でもどうやって人生を変えていくのか。その方法は全くわからなかった。ただ決心だけをしたのだ。いつか必ず変えてみせる、と。それは根拠ゼロの子供っぽい希望でしかなかった。けれでも私には、この希望という極めて抽象的な言葉だけを頼りに生きていくしかなかった。

トンネルの先には光が見える、とよく言われるが、私のトンネルには光は見えなかった。だから想像上の光を見るふりをしたのである。つまり幻覚である。その幻覚がまさに私の希望だった。

***********************

人は経験を積むためにこの世に生まれてきたわけだけれど、苦しみが全くない楽しく楽な経験だけの人生を望むならがっかりすることだらけだと思う。

確かにそのような楽な人生を一般的に人は「幸福な人生」と呼ぶけれど、まず有りえないのではないか。本当にそんな人がいるなら是非お目にかかりたいと思う。

 

幸福は自分の心持ち次第というのは確かに正しい考え方だけれども、現実は厳しい。

思うに、あるとすれば、その心持ちとはこういうことかもしれない。

つまり、希望を持つことであると思う。

希望さえあれば、辛い中にあっても小さな幸福感を見いだせる。希望さえあれば、せめて今日の一日は乗り越えられると思える。

だから、いつかどうにかなる!と自分にいいかせることによって、その一瞬の不幸感を軽くすることは可能かもしれない。

それが「心持ち」かもしれない。

 

幸福は自分自身の中にあるということは、自分の心の中にあるという意味。

だから幸せであるという心の気持ち、つまりそういう心持ちを心がけて日々を過ごせば明るく生きていけるように思う。

 

私は自分の置かれた境遇を受け入れるしかなく、その中でどうにか生き延びることだけが当初の目標だった。その後、そんな目標では到底幸せを感じることは不可能で、生き延びるどころか、その日だけの悲しみを通り抜けることさえも困難になってきてしまった。

だから、見えないけれど遠くに希望の光があることを想像してその光を見ながら前進するしかなかった。希望は幸福への入り口であると思う。

***********************

希望があれば、今日の分の落胆や悲しみは乗り越えることが可能だと思います。

そして明日が来た時には、明日の分の試練を希望を持って乗り越えればいいのだと思います。

それが幸福感をもたらしてくれると思います。

 

たとえ食物に事欠くことがなくとも、

希望がなくては生きていくことはできないですよね。

 今日も希望を持って生きるぞ〜〜〜〜!

皆さんもね。

 

 

 

 

 

「良いお年になりますように」と言うけれどそれって本心?

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(出典:https://images.myguide-cdn.com/algarve/events/large/new-years-eve-in-albufeira-albufeira-carpe-nox-623391.jpg

お正月の決まり文句として、

 

日本では、

「よいお年になりますように。」または

「よいお年になるといいですね。」

で、

 

英語圏では、

I wish you a wonderful year!

と言うのが常だけれど、

これって本心から言っていることなのだろうか?

察するに、相手にとっての「よいお年」を意図しているのであろうが、

本当はどうなのか?

 

いい習慣ではあるけれど、

やっぱりただの挨拶にちがいない。

でも相手の幸せを本当に願って言っている場合もある。

確かにその言葉からはいい波動が出ている。

 

言われた本人は

「そうだね。よい年になるといいな」

と希望で胸が満たされる。

 

でもその一年後。

果たしてその「よいお年」は成就されたのだろうか?

 

わたしが思うに、

この「なります様に」とか「なるといいですね」と言う表現は

ものすごく他力本願に聞こえる。

誰かに「よいお年」にしてもらうように願っている感じだ。

また一体、何が起きれば「よいお年」なのか?

すごく曖昧。

漠然としていてつかみどころがない、

とは誰も考えていないのだろうか?

 

この「よいお年」の概念はなんなのか?

この新しい年がどうなって欲しいのか?

そのために自分ができることはなんなのか?

 

これが正しい考え方であると思う。

これなら一年の終わりに、「よい年であった」と言えるだろう。

 

友人のヘイリーは、結婚願望がずっとあるが、今も独身である(今は50歳くらい)。

誰が見てもとても上品で良妻賢母タイプの女性であると思う。

 

彼女は、

宇宙に自分の意志を伝えれば宇宙が必要なものをくださる、と言う宇宙の引き寄せの法則を信じている。

それは確かに有り得る。

彼女の問題は、宇宙にお願い(つまり神頼み)だけして自分は何もしないことだ。

ただ待っているだけ。

いきなりどこかからその理想の男性が自分の目の前に現れると信じて疑わない。

実際、過去にないことはなかった。

でもその男性が、宇宙がめぐり合わせてくれた人だとは思っていなかったようだ。

大体にして彼女は内向的な性格で、自分から探すとかアプローチとかはまずありえない。だから相手が強いタイプでないと何も進まない。でもそういうガンガンの肉食男子は好みでないらしい。

要するに理想が高すぎる!

この年で白馬の王子様を今も待っている。

そうただ待っている。

はっきり言って、白馬の王子様なら、もっと若い女性で候補など捨てるくらいいるでしょう。だからそんなのは負け戦に決まっているのだ。

自分の足元を見るべし!!!!

 

流行りの引き寄せの法則だが、

願っているだけでは波動は弱い。願っているだけで物事が起きるのは地球の外の話。

この地球の周波数は宇宙のそれよりはるかに弱い。

弱いから人間が住めるのだ。

周波数が弱いから、自分の力と努力で夢を達成できるように行動を起こさないと何も進まない。

強く思い行動を起こせば起こすほど波動が強まると言うカラクリだ。

だから棚からぼた餅は滅多にない。

 

確かに願ってもいないのに偶然にすごくいいことが起きることもある。でもそういう人は、人が見ていないところでコツコツとものすごい努力をしているものだ。娘がそういうタイプだ。彼女は同級生が「人生を謳歌している間」に部屋にこもって自分の技術を磨いていた。それをたまたま、ある人が見ていて仕事の声がかかったのだ。

まだ大学生だが既に周りが羨むような仕事があり、特に「チャンスを見つけに行く」努力はしていないが、なぜかあちらからやってくるようだ。不思議。でも彼女は自分のすべきことはあらかじめやっていたわけなので努力なしで捕まえたわけではない。

 

夫が子供たちにいつも言っている言葉にこんなのがある。

(でも・・・息子たちは父親の言うことなど無視。😞)

「成功とは「準備」が「機会」と巡りあうことを言う。」

(Success is where preparation meets opportunity.)

 

今更言わずとも知れたことだが、

今は見えなくとも、それが起こると信じて日々小さな努力を怠らない人に成功がやってきて、「良い年」つまり実りのある年がやってくるのだ。そういう人は往往にして強くはっきりとしたフォーカスがあり、その強い意志は天にも届きやすい。波動が強いのだ。だから天も味方をしてくれるのだろう。(だから最初に必要なのは何がしたいのかはっきりさせることで、次は熱望すること。そして行動。)

目標も方向性もゼロでただ単に「よい年」を願っても、宇宙も何をあげていいかわからないではないか。具体的であればあるほど宇宙も味方をしてくれるのだ。

夢を語っているだけの人には宇宙の助けはあまり期待できない。

これができなければ、「僕は生きていれない!」くらいの熱望があれば宇宙にその希望は届く。

やっぱり家で自己啓発の本を山ほど読んでいても行動が伴わなければ何も起きない。

 

何が起これば「よい年」かをはっきりさせ、

新年の抱負はより具体的な達成可能なものにしましょう。

そうすればあなたの期待する「よいお年」に必ずなるでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

幸福への第二の鍵:幸福は自分自身の中にある

 

 

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(出典:https://cdn.quotesgram.com/img/71/34/1238889810-very-little-is-needed-to-make-a-happy-life-it-is-all-within-yourself-in-you-way-of-thinking-570235.jpg

幸福への第二の鍵:

  幸福は自分自身の中にある。

  自分の選び次第。

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幸福は一般的に自分が見えるところにあるが、そこには落とし穴も存在する。

それではどんなものがあるであろうか。

最も分かりやすい幸福に至る道は下記が挙げられる。

 

1. 家族や友達

家族や友達と助け合いながら仲良くやって行けるなら、人生は完成に近いと思う人は沢山いる。けれどもその家族や友達を失うこともある。もしこれに自分の幸福を委ねるなら、その時には幸福は消えてしまうということになる。

 

2.

多くの人にとって富と幸福は類語である。裕福になるという目標を掲げることに問題があるわけではない。でもそれにも限界がある。富を一夜にして失うこともある。そういう恐れから完全に逃れることも難しい。ただ富が優先順位の一番になることが問題になるのではないだろうか。

 

3. 社会的地位

社会的地位が伴うと往往にして責任も増え、対応しないといけない課題も増加する。権力を間違って使ってしまうこともあり、周りからの中傷も多い。その地位を横取りしようと狙っている人もいる。よって心配事は尽きない。首相や大統領のストレスは測りきれないレベルであると容易に予測できる。だから社会的に地位があっても幸福とは限らない。

 

4. 高学歴

学歴が低いと自分で思っている人は、それを気にして劣等感に悩まされることもある。だから学歴が高ければ幸福になれるような錯覚を覚えてしまうこともありうる。

ちなみに、私の夫は大学教授で博士号を持っている。幸福かというとなんとも言えない。仕事量は想像がつかないほど多い。会社員の方は週末に休みが取れるが、夫は週7日労働で朝の7時から夜の11時まで働きっぱなしである。パワハラ学部長の下で嫌な思いをしてひたすら耐える日々だ。妻の私は何もできないので、ただ、多忙な彼を邪魔しないように努めている。

 

博士号の達成感は博士号を授与された時にありその時は幸福感と希望に溢れていた。でもそれは長続きせず、現実があっという間に彼のやる気と幸福感を潰してしまった。

だから一刻も早く退職することだけを希望に仕事をしているのである。その対策の一つとして、最近コンピューターにログインするときのパスワードを退職予定日に変えたらしい。それをタイプするたびに笑顔になると言っていた。夫を見ている限りでは学歴は幸福に全く関係ないと思う。学歴と幸福を天秤で比べて見るなら同じにはなっていないことは明らかだ。ほんとすごい可哀想・・・。

 

5. 名声

通常、名声度が上がれば上がるほどプライバシーが下降する。でも常に有名でいなければ、スターダムから蹴落とされてしまう。そのような恐怖感から逃れるためには余程の強い精神力がないといけない。プロのスポーツ選手も負ければ、コテンパンに叩かれ嫌な思いをする。有名であるということは、敵が多くいることになる。恥も沢山かくだろう。本当に幸せなのだろうか。

確かに有名人は、富、魅力、高価でおしゃれな車、豪華な家など幸福を象徴するものをもっている。しかし、その名声の下には、米国の例でいくなら、麻薬中毒症、子供の問題、結婚の破綻、浮気などの噂でも有名だ。

 

6. 娯楽

多くの人が娯楽に幸福を見出そうとしている。けれども娯楽と幸福には実は共通点はない。娯楽などの楽しみは短期間しか続かないものだが、反対に幸福というものは長期にわたり意義深い感情を伴っているものだ。

確かに娯楽はリラックス効果を持つ。しかしそれは自分の抱えている問題からの「逃避」であり、「一時的に忘れる」ための格好な逃げ道でもある。

楽しい映画を観た後に問題が消えているわけではなく映画の前と何も変わってはいない。それは肯定的な影響が「楽しみ」が続く限りは続いているだけで、本当の意味での幸福感をもたらすことはできないからだ。

 

まとめ

多くの人にとって将来はわからないものだ。

社会には大きな問題が存在する。物価上昇、インフレーション、就職難、経済危機、災害、自然破壊、テロリズム、自国および国際社会の闘争不和、難民問題、家庭問題、貧困、飢饉、犯罪、その他の危機問題は、希望を奪い、代わりに絶望をもたらす。

これらの問題に解決策があるのだろうか。多くの場合は「深い挫折」という解決しかない。そのため残念なことに、問題から退き無関心になる人が多くいる。また他の人は、次に何が起こるかなどはどうでも良いことになり諦めの境地に至る。

それはもう既にできることは全部やってみたが、何の結果も得られなかったからである。

 

こんなひどい状況でも幸福感を得ることはできるのだろうか?

できる人もいる。

ただそういう人は考え方が違うようだ。

彼らはこんな風に考えている。

 

自分の周りで起きていることは

ほとんどの場合は

自分にはコントロールできないものなのだ。

でもそれに対してどのように反応するかは

自分でコントロールできる範囲にある。

 

簡単に言うなら、

たとえ困難の真っ最中にあろうとも、幸福感を感じることは可能である。

もし自分がそれを本当に欲するならばの話だが。

 

だから、人生とは自分次第。

幸せも自分次第。

ということは誰でも幸福になれるということなのだ!

 

幸福とは、

周りで起きていることとは関係なく

自分の内面に見つけられるもの。

自分の選び次第!

自分が幸福感を選ぶなら幸福になれる。

 

 

 

日本ならではの掃除哲学

 

 

 

 

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Girl Sweeping. William McGregor Paxton, 1912, Pennsylvania Academy of the Fine Arts.(出典:https://parabola.org/2017/04/29/the-art-of-cleaning-by-llewellyn-vaughan-lee-and-hilary-hart/

日本はもうそろそろ大掃除の季節。

それとは異なり、アメリカは大掃除は年末には通常しないことになっている。

特に北部は寒いので、窓を全開して空気の循環を図る!など、

よほど勇気のある人でないと無理。

だから年末の大掃除はここではなし。

 

その代わりに大掃除は昔からの習慣で通常春に実施することになっている。

その一つの理由は、暖炉の使用が終わるころだからである。

 

でも我が家では一応大掃除まではいかなくともこの時期に普段より念入りにするようにしている。

その理由はやはり日本の掃除哲学に惚れ込んでいるからだ。

そしてこの掃除を哲学の領域まで高めたのは日本人が初めてだと確信している。

 

昨年の汚れを取り払い新たな気持ちで新しい年を迎える。

その綺麗になった家に神様をお招きする。

このような概念に感銘を受ける人は一人ではないはずだ。

 

汚い場所には滞ったエネルギーが流れている。

反対に、綺麗に掃除が行き届いた家には高いエネルギーが流れ、

高質のエネルギーの流れる環境は健康や精神にも影響を及ぼす。

人の魂も清浄されるように感じる。

 

掃除はセラピーでもあると思う。

瞑想でもある。

現に、お寺の僧侶の方々も朝早く掃除をするが、

それは瞑想であり修行の一部であるらしい。

同じように、

一般の人が自分の家を磨くことも、地面を履き清めることも、

瞑想であり修行であるように思う。

 

家を掃除すると、空気が浄化され、見た目にも整然とし、そのことにより心も浄化され整然と真っ直ぐな生き方を心がけるようになるように感じる。

 

私にとって環境を綺麗にするという作業は、

自分自身の心の垢や曇りを取り除いていることでもある。

ただ長生きすればするほど、この垢や曇りも生半可ではなくちょっとやそっとの掃除では済まされなさそうだ。

 

黙って

ただひたすら

掃いて、拭いて、吸い取って、ゴシゴシこすって。

綺麗になった暁には

心もスーとして

晴れやかになる。

不安も消える。

軽くなる。

マインドフルネスの空気

心をさらう。

 

 

 

 

1円でできること

財政管理能力

お金を使うことは確かに楽しい。

一時的な喜びをもたらしてくれる。

ただお金を使う事が最大の趣味で喜びだと思っている人は問題があるのではないだろうか。

さらに、このくらいいいか、と思っていてもチリも積もれば山となるので、後々が怖い。

 

使い過ぎや買い物依存症は心の問題である。

自分の中の空虚さを埋めるために物を買い、

物で自分の心を満たそうとするのだ。

果たしてそれでいいいのだろうか?

 

少ない収入でも自制できる人は貯蓄を心がけ、後々必ず大きな違いが出る、というのは今更言われるようなことではない。いつの時代でもどこの文化でも言われていること。

反対にいくら稼いでも、自制が無い人は、結果的に前者より貧乏になる確率が高い。

アメリカのプロのアスリーツなどは短期間で大金持ちになり華やかな生活を営む一方、財政管理を怠る人が多くいる。かといってずっと現役でアスリートを続けられるわけではない。そのため資産はあっという間に底をつき、それなのに生活水準を落とす気はさらさらないので、今度は借金で首が回らないようになっていく。

確かに、収入は多ければ多い方がいいかもしれない。

でもいくら稼ぐかよりこの財政管理能力の方が大切ではないだろうか。

 

1円でできること

英語圏に「ペニーをおろそかにする人はペニーで困るようになる」ということわざがある。

1ペニーは1円にあたる。

たかが1円されど1円。

1円を大切にする人はケチなのではなくて賢明な人なのだ。

その1円で人の命が助かることもある。

 

  • まずは、ユニセフに1円募金したらどんなことが可能なのだろうか。

1.はしかやビタミンA欠乏症による合併症を予防したり治療したりするためにビタミンAカプセルを1錠支給することができる。

2.1円×6回
6円で急性下痢症による脱水症状から子供の命を守るために経口補水塩1袋と安全な水を支給することができる。

3.1円×12回
12円でポリオ経口ワクチン1回分を支給することができる。

4.1円×48回
48円で4~5リットルの水を浄化することが出来る浄化剤を50錠支給することができる。

5.1円×79回
79円で子供二人分の鉛筆とノートを支給することができる。

(出典:ユニセフ募金 1円でできることはたくさんあります!https://matome.naver.jp/odai/2150367212010047201)

 

  • さらに、100円なら何が買えるか?

ペルーではマンゴ1キロが買える。

フィリピンではレストランでのフルコース一食分になる。

 

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ヤギをもらって喜ぶ子供。(出典:https://donate.worldvision.org/give/animal-agriculture-fund
  • 1万円(110ドル)ならヤギを一頭買ってあげれる。その一頭は家族にミルクを提供し収入減にもなる。

https://www.compassion.com/catalog/donate-a-goat-charity-gift.htm

 

世界は貧しい

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ホームレスの兄弟。(出典:http://www.asianews.it/news-en/Rajshahi:-Caritas-stands-by-the-poor-and-disabled-with-blankets-and-winter-clothing-36414.html

驚くことに、世界には1日1.9ドル(≒200円)以下で生活する人が実際7億人もいる!

世界196の国・地域のうち146国、つまり全世界の約74%が“途上国”と呼ばれている!

https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/about/oda/page22_000783.html

 

また世界では1分間に17人が飢餓の原因で死んでいる。

https://jifh.org/pdf/joinus_plan/plan01.pdf

 

もし貴方がどうでもいいことにお金を使いたくなったら、

自動販売機で缶ビールやタバコでも買いたくなったら、

まともな教育も受けれず、おなかをすかせ、生死をさまよっている途上国の子供たちのことを頭に浮かべて欲しい。

そして貴方がどうでもいいと思っている1円を彼らに是非送って欲しい。

 

もし彼らのことがたとえ一瞬でもあなたの頭の片隅をよぎるなら

あなたは容易に自制をすることができるようになるでしょう。

 

最後にもう一つ。

苦しんでいる人のことを心にかけてあげることこそが

”本当のクリスマスの心”なのです。

そして他の人のために生きることが自分の幸福への道なのです。

 

Merry Christmas to ALL!

 

 

 

イラスト:MCL