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ミモザのアメリカ言いたい放題!

米国情勢下のダブルエコライフ

冬ごもりの準備

北米は、世界の75%の資源を消費している。

それは市民の日々の暮らしの中に見事に現れている。

 

例えば、

冬でも家の中ではTシャツ1枚で、半ズボンで、裸足。

これが普通。

 

なぜ冬の真っ最中にこんな格好でいられるのか。

その答えは

全ての部屋にガンガンに暖房がきいているからだ。

その電気代は、最低一ヶ月600ドル(6万円ちょっと)。

より面積があれば当然もっとかかる。

 

夏は日本人からすると全く夏のうちになど入らず、

冷房など絶対必要ない!と思うのだが、

どの店も、会社も、家もガンガンにきいている。

彼らは常に快適でないと我慢ができないのだ。

(彼らの体温は本当に日本人より高い!理由は肉食?はたまたメタボ体型?)

 

けれども、

こんなに電気代がかかってもあまり気にしている様子はない。

エネルギー源が消えることについては

「誰かが代替品を探してくれるでしょ」とかなり楽観的だ。

 

環境のためにも資源保護のためにもエネルギー消費を自粛するように等という国からのおふれなども耳にしたことがない。EPA(環境保護庁)勤務の人でさえ実施しているかは謎。人に命令しても自分がするかと言うとそればアメリカに関しては別物。

 

福島の原発事故の後に、この自粛のおふれが日本全国に出て、国民は素直に従ったと聞いた。果たして同じことが起きてアメリカ人は従うだろうか?

アメリカ人は、「他の人が自粛すればいい」という自己中な考え方の人が多いため、絶対にこのゴールは達成できないはずだ。

多分無視するはず。

こういうところがアメリカのイヤなところだ。

自分さえよければいいという。

そしてこういう面が日本人の美点であると思うのだ。

つまり民が一致団結していつでも協力体制に入ることを厭わないという点だ。

 

では我が家はどうかというと、

このようなアメリカの大多数派を無視して、とことん足並みを合わせないようにしている。

資源保護だけのためではなく、節約のためにもエネルギー消費量を減らすように努力している。

 

今回は寒い冬の電気代を浮かすためにしていることをご紹介したい。

我が家ではこれをWinterizing (家を冬に適応させる)と呼ぶ。

つまり、冬ごもり準備だ。

ここは冬が長いため、その名の通り、その間ずっと家の中にこもって過ごす。

家とは極寒地では避難所であり癒しのための巣なのだ。

その巣は当然暖かく心地よくないといけない。

それもお金をなるべくかけないで。

 

そのために

最初にすることは、

  • 全ての窓にプラスチックシートを貼った自家製の枠をはめ込むこと。これで外からの冷気をシャットアウトする。

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  • その上に厚手のカーテンをかける。

その上からもう1枚カーテンをかける。

北側の窓には枠の上からカーテンを3枚から4枚重ねがけする。(なんで北側に大きな窓がいくつもあるんじゃ?理解不可能。アメリカの家は効率より美観を一番にしているからだと思う。)

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  • 南のサンルームは暖房が入らないだけでなく、窓だらけでやたらと寒い。

そのためストローベール(わらの俵)を天井近くまで重ねて部屋の熱が逃げないようにする。ちなみにこのわらは一俵3ドル(30円)だけ。農家から分けてもらった。

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  • それから、暖炉にくべる薪を切る。ちなみに薪にする木は我が家の庭で切り倒したものや家の改造から出た余り板。斧を上手に使うのは結構コツがいる。

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  • カートに切った薪や板を入れる。

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  • 家の中に薪を運び入れ暖炉に入れて火をつける。(隠れているが、暖炉の横にロープが吊るしてあり洗濯物をかけている。アメリカ人は洗濯物は全部乾燥機で乾かすのが常だが我が家は別。)

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うお〜!

あったかい!

 

これでも寒いと文句を言う家人には、

重ね着しい〜〜!

靴下も重ねばきしい〜!。

帽子もかぶり〜!

マフラーしい〜!

上着もじゃ〜!

絶対に引くつもりはない。

 

それでも苦情が続くなら、

その辺を走ってこ〜い!

薪でも切ってこ〜い!

とでも言えば

これで全員黙る。

 

このような努力の甲斐あり、

我が家の冬季の電気代は、

一ヶ月約$250(約2万7千円)だ。

この辺の人の電気代に比べるとかなり安い方に入る。

でもこれでも随分高い!と感じている。

よって、どうやったらもっと安くできるかを現在検討中。

 

暖房のシステムだが、

家の中の気温は摂氏で18度(華氏65度)にセットしてある。アメリカは水のパイプが家中に通っていて、家の中の温度が低すぎる(最低約摂氏5度)とこのパイプが破裂することになるので、あまり温度を低くはできない。とりあえずセントラルヒーテイングのシステムも入っているので、暖炉に火が灯っていない時でも、18度を下ると、自動的に暖房が入るシステムになっている。

 

こんな風に暮らしているので、引っ越してきたばかりの時、夏は近所の子供達が遊びにきていたが、冬に一度来てからと言うものもう二度と来なくなった。

 

彼らに言わせると、

うちはすごーく変な家らしい。

 

ズバリ

あたりです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大雪開始!冬の到来!

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今朝の裏庭。さぶ〜〜〜い。

雪!

大雪!

 

今年の雪はなんと早い!

今回は11月に入ってから三度目の雪だ。

でもこれほどは降らなかった。

今回は、一昨晩から二日間に渡り雪が降り続いたせいかそこら中白銀の世界となってしまった。

 

現在 5℉!

ということは摂氏でマイナス14度!

きゃあ〜〜〜!

 

ああ、なんか

憂鬱・・・。

これからずっとこれだもんね。

 

でも、雪がタンマリ降らないと、来春、農家に影響があるので

雪はとっても大切。

 

けれども農家でないわたし達にとっては

冬は寒くて危険な季節以外の何物でもない。

昨日、仕事に行く途中の上り坂で、氷の塊(ブラックアイスと呼ぶ)の上に乗ってしまったらしく自家用車が動かなくなってしまった。アクセルを何回も踏んでも全く動く気配がないだけでなく、氷の上を後方に向かって滑り始めた。後方には自動車が15台ほど、わたしが動くのを待っていた。隣を見ると、同じケースで、道路の隣の谷に落ちかかってどうにか留まっている車があった。思わず頭が真っ白になった。

これがここの冬。

これが今年も始まってしまったのだ。

そして、これからもっと雪が積もり、気温も下がる。

 

実は暖炉に火が初めて灯ったのは9月!

そう、日本がまだ結構暑い時。

ここは本当に寒い!

でもシベリアに比べればここばよっぽど暖かいらしい。

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デックから見た景色。雪かき?そんなのは春まで無視に限る!と言いたい。でもやらないと家もデックも重力で壊れるし全く缶詰になるから逃げられない!

確かに

暖かい家の中から外の雪景色を眺めるだけなら

とっても素敵。

 

でも仕事や学校に行く人にとっては

ため息の出る季節なのだ。

これから毎日真っ暗な時間に家を出て、真っ暗な時間に帰宅する。

(これって朝7時半に家を出て、午後6時に会社を出るってシチュエーションですよ)

太陽を見ない日なんてごく普通のこと。

当然この辺の住民すべてがビタミンDの欠乏症に罹っている。

 

欧州の古代人が太陽を拝んだ理由が、ここに住んでいると心からうなづける。

長い冬が終わりに近づき、太陽が顔を出し、雪が溶け出すと、本当に「太陽様」って感じになるのだ。

 

でもまあ

自然も休憩が必要で、冬眠しなければ来春に芽を出せない。

だからこれでいいのだよ。

こんな風に人間も自然のサイクルに合わせて休まないとね。

体も頭も心も。

 

今日、凍りつくような雪の中でこんなことを思った。

 

人生にもこうやって寒い季節があり必死になって耐えるしかできないこともあるんだ。

だから自然に逆らわずに生きることが大切だなあ、と。

イヤだイヤだ、と騒いでみても冬は終わってくれないんだから。

 

でもただひたすら北風に吹かれて雪に埋もれて耐えるのはちょっとね。

だから、どうせなら、

 

苦難や試練の中に

プラスを見つけて

楽しみを見つけて

冬を乗り切りたい。

暖炉のそばで、

ココアを飲みながら

猫を触りながら。

 

冬は心と体と頭を休めるシーズン。

内省のとき。

雪の精の奏でる旋律が

変わろうとしない

頑固な自分の心の奥底まで入って来てくれて

全ての汚れを覆い消してくれるように感じる。

 

冬もいいものだ。

 

 

 

 

似ても似つかないアメリカ人の宗教観と信仰心

大きな違い

日米間の比較文化学で顕著だと思えることがいくつかある。

その一つは宗教観。

 

日本人と一緒にいると、よくこんな言葉に出くわす。

「なんかヤバい風になってきましたね。」

とか

「大丈夫、危険な新興宗教じゃあないですよ。」

とか

「宗教をやっている人ってちょっと変な人が多いよね。」

とか。

 

周りに誤解を招かないようにかなり気をつけているように見受けられる。また信じている人を「異物」として排除する空気もかなりある。

 

でもこういうのはまずもってアメリカにはない。

 

それは自分の信じていることを堂々と伝えることは美徳と考えられているからだ。

どんなに敵を作っても構わないほど勇気のある人は尊敬されるのだ。

大衆がその人の言うことを信じなくともいい。その堂々とした態度が周りを黙らせるのだ(と言っても敵は山ほどいるのだが)。

 

堂々と生きること。

自分の信念を命をかけて貫くこと。

それがここでは「尊敬されるような生き方」とみなされる。

 

だが、日本ではなぜか遠慮しないといけない。

本音は信じているけれど、建前の無宗教無神論者で通さないと社会から村八分になるような気がするのであろう。狭い日本列島で村八分されてはたまらない。

だから個人よりも社会全体の流れや意見の方が大切になってくる。

 

それでこのような文化にすんなりと難なくフィットできる人はそれはもう

「おめでとうございます」

だが、

フィットできない人はどうするのか。

肩身が狭いと感じている人も多いのではないか。

息苦しいと思うこともあるのではないか。

 

実際、アメリカでは神を信じたり、特定の宗教団体に属したりすることは、極めて普通のことなのである。かえって好まれる。

それでは統計的に彼らの信仰心を見てみよう。

 

アメリカ人の信仰心:統計学的見地からの考察

神の存在を100%心から信じている人:63%

神の存在をほぼ信じている:20%

神を信じているが、いつも絶対というわけではない:5%

神を信じているが、それが具体的にどういうことかわからない:1%

無神論者:9%

その他:自分が神を信じているかどうかがわからない:2%

www.pewforum.org

 

これによると、レベルの差あり、

90%近くが神を信じていることになる。

そしてこの信仰心100%を示した63%の市民のほとんどはどこかしらの宗教団体に属し熱心に実践している人たちだ。いわゆる日本でいう「宗教をやっている」人を指す。

 

これがアメリカ人の本当の姿なのだ。

 

本当の姿

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ウェスタンケンタッキー州立大学の学生たち。(出典:https://www.breitbart.com/education/2019/02/05/western-kentucky-u-sponsors-service-trips-but-not-for-christian-groups/

この国の人の本当の姿は、日本人が憧れているアメリカ人の姿とはかかなり違う。

「神」や「精神文化」を大切にする人が多い。

「信仰心が篤い」人が多い。

彼らの信仰とはイコール生きること自体に他ならない。

 

彼らは日本人のように異なる宗教行事をごちゃまぜにすることもない。

彼らにとって宗教や信仰とは大変神聖なもので、茶化したり、面白がったりするものではないのだ。

12月25日は恋人と一夜を過ごすロマンチックな行事ではなく、家族と厳かに過ごすときなのだ。自分を救ってくれた救世主の不思議な誕生に心を馳せる日なのである。

 

西洋人が不可思議でならない日本の風習がある。

宗教を馬鹿にしたりする人でも結婚式はキリスト教会で行なったりすることが挙げられる。

こういうのはアメリカにはまずない。

信じていない人がその教会で式を挙げることは、その宗教に対する冒涜に他ならないからだ。

教会でしようが、寺院でしようが、それは個人の勝手であるが、アメリカでは、それは全て信者の宗教観から決めていることだ。「素敵だから」と言うのは考えられない。

無信者が十字架のネックレスを首につけるのも大変失礼である。

 

さらに、アメリカ人に自分の宗教について説明をお願いすると、ほとんどの人はきちんと説明ができる。

反対に、日本人に同じような質問をすると、

「うちは浄土真宗。。。だと思う。」

「じゃあ、浄土真宗は何を信じているか説明してください。」

「・・・。」

となる。

 

何も知らない人が多いようだ。

これに対して恥ずかしくないのだろうか?というのが外国人の味方だ。

大変優秀な日本人が全く答えられないと、日本びいきの人でも興ざめすると聞いている。日本の国家宗教は仏教だが、仏教には素晴らしい教えがたくさんある。それを知らないなんてなんともったいない話ではないか。

(実は私もず〜と前に禅宗のついて聞かれたが何も答えられず恥ずかしい思いをしたので、少々勉強をさせていただいた。こんな素晴らしいことを知らなかったなんて今までなんと損をしてきたのか!とつくづく感じるに至った。)

このように、日米の宗教観および信仰心の違いは顕著である。

 

理由

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アメリカの家族の祈り。(出典:https://www.ucg.org/the-good-news/five-keys-to-a-happy-family

その理由は多くの背景が考えられるが、一つに建国の思想が異なることがあげられる。

現代アメリカは開拓者が「理想郷」を目指して作り上げた国だ(これに犠牲となった先住民の存在もあるが、これは別の機会に触れさせていただくことにしよう)。

古い世界で宗教迫害を受けてきた人々の新天地だったのである。

入植者たちはみな宗教心の強い人々で子孫代々にわたり祖先から続いている伝統をバトンタッチさせようと努力を厭わない。それは大変根深い。

日本との違いは、「うちはナントカ宗」と言うだけでなく、幼児の時から教義を教え実践している。彼らにとって宗教とは日々の食事と同じくらい大切なのである。そして神の存在を信じる信仰心はひとえに篤い。

だからと言ってアメリカ人が完全と言うわけではない。

そもそも、人は完全になどなれないのだ。

そのことを理解しているためか、「不完全」に対して日本よりは寛容に見える。

 

観念の違い

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共に手を握り祈る人々。(出典:Stephaniefast.org/prayer-not-one-time-request/)

日本では「宗教をしている人は立派な人でないといけない」と言う風に誤解されているようだが、特にキリスト教では「一気に完全な人になるように」などと言う無理な注文を出しているわけではない。

完全な人間はいなく、だから間違いを起こす。その罪のために贖い主キリスト様と言う方がおられ、彼の哀れみにより人間は赦される。彼は世のすべての人の苦しみや悲しみや罪を受けて十字架にかかった、と言うのが宗派の違いはあれど、根本的な原理である。憐れみと赦しの宗教である。彼らが日曜日に教会に行く理由は、自分たちの神に感謝し、罪の赦しを受け、新しい週に先週よりよりよく生きる決心を新たにするためである。そして互いに慰めあうためである。

仏教、特に禅宗は米国でも大変人気があり、座禅を実践するだけでなく、かなり熱心にその本髄を研究している人が多々いる。禅宗は心を科学的に捉えていて、心のコントロール法を教えている。それにより、どんな事態になっても心の均衡性を保つことが可能になるため人気がある。

 

どの人の人生にも痛みがありそれは避けられない、今までになくとも、いつか必ず訪れるものだ。確かに全体的にポジテイブな人はいるが、なんでも自分の力で克服できる強い人などいるのだろうか。そういう時のために、宗教があるように感じる。それは生きる目的を教えてくれるからだ。耐える力を与えてくれるからだ。またアメリカでは宗教団体は規模が大きく、その中で、精神的、肉体的、経済的な援助も得られる仕組みになっている。運命共同体に福祉活動がくっついたNPOと言える。行政も家族も助けてあげれない状態で、経済的にも無理なら、教会が助ける仕組みになっている。それはこの広い北米大陸で誰も孤立して生きて行くことができないことを彼らは潜在的に知っているからであろう。

こんなことを言うと、ある種の日本人は「宗教なんて弱虫のやることだ」といとも簡単に片付ける傾向がある。これに対してアメリカ人は「神を信じているから、不可能を可能にすることができるのだ。弱い人間の力なんて限られている。だが万能の神にはできないことがない。」と応答するであろう。

彼らは神と共に生きることにより、重荷を担ぐ力を得ているのである。他の言葉で言うならば、神が人の重荷を一緒に担いでくれているので、そう重く感じられないということである。それが彼らの信仰なのだ。これを日本では「他者に頼る弱い人間」と言う人もいるが、果たしてどちらが本当の意味で強く、充実した人生を生きているのだろうか。

 

結論

どの宗教にもどの教えにも素晴らしい概念があり、それぞれ問題もないわけではない。

その良いエッセンスを上手に取り入れられるなら、またそれで幸せになれるなら、それに越したことはないのではないだろうか。

それに、すべての人には信仰の自由があるわけだから、信じたい人は信じればよく、周りの人が「それはおかしい」などと馬鹿にしたりするなどもっての他と思う。全てにおいて周りと足並みを合わせる必要はなく自分の心が納得することを選ぶべきで、周りの人も他人のことにとやかくいうべきではないのだはないだろうか。

各人の意見に完全に同意する必要はないが、尊重することは共存していく上で必須のように思われる。アメリカは多様な文化の集合体なので、違いを尊重しなければ、共存が不可能だ。日本は国際化していると言っても基本的に多民族国家でも多文化主義でもないため、異なる考え方や生き方を受け入れる真の心の広さがなかなか育ちにくいのかもしれない(たとえ受け入れていると言っても表面だけを引っ掻いているだけのように見受けられる)。

 

国際社会に日本が今後も参加する意志があるなら、この面を改善すべきではないかなと思う。日本には良いところがたくさんあるが、日本の常識は外国の非常識となることも多いからだ。存続のためにも鎖国文化はもはや通用しない。

と感じる。

 

 

 

 

 

エコで超安い洗濯石鹸作り

 

我が家には公共の水道水が来ない!

よって当然井戸水を使っている。

 

ついでに、

下水処理などという文明の利器もない!

え〜〜〜〜?

 

じゃあどうするかって?

それは・・・

おそらく・・・

日本の皆さんが想像もつかない方法

かもしれない。

 

つまりこんな感じ。

 

家の裏庭地中に巨大なSeptic Tankというものが埋め込められていて、そこに使用済みの水がパイプを通して全部流れて行くことになっている。

当然トイレで流した水もそこに行く。

そのSeptic Tankにバクテリアとエンザイム(Green Gobblerという商品名)を放ち、そのバクテリアとエンザイムが水と一緒に流れてくるものを腐敗分解させる。

もしそのSeptic Tankに強力な化学物質を流すと、そのバクテリアが殺されエンザイムが破壊される。

すると、Septic Tankの水が溢れ出し、悪臭(なんで悪臭がするかはご想像にお任せします)が立ち込め洪水となる。

で、こうなると、昔ながらの

「汲み取り屋さんを呼ばないといけない。

 

この依頼費は5万円くらいかかり、せこい我が家は、自然の摂理に即したエコな方法で対応することにした。

 

ということは、どんな汚れも一発で落ちる!なんて宣伝している有名ブランドの洗濯石鹸はご法度なのだ。

危険な内容物が凝縮しているため使えないのだ。

 

じゃあ、どうするか。

 

最初は、オーガニック店でエコな洗濯石鹸を買っていたがこれが結構な値段なのだ。

子沢山の我が家には痛い出費!

 

だから!

我々は自分たちで作ることにした。

 

最初は怖々だったが、実はいとも簡単に作れるということがわかった。

 

そうだ!!!

洗濯石鹸くらい自分で作れるのだ!

 

そして結果的に節約につながり、環境保護にもつながっている。

のはずだけど果たして本当はどうかは謎・・・。

 

では興味のある方限定で、この作り方を説明したいと思います。

 

材料

  • 鍋(最低2リッターの液体が入る鍋)
  • かき混ぜ用の木のスプーン
  • 5ガロン(20リッター)の蓋つきバケツ
  • 昔ながらの固形洗濯石鹸:1個(日本にもブランドは違っても売っているはず)

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  • Washing Soda 洗濯ソーダ/結晶ソーダ: 1.5 カップ

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  • Borax ホウ砂(しゃ): 1.5 カップ (薬局で尋ねてみてね)

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  • 熱湯: 5 gallon (20 リッター)

作り方

1。固形洗濯石鹸をチーズフレークの大きさの粉状にする。

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2。2リッターの水を準備。

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3。沸騰。

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4。粉状にした石鹸を沸騰したお湯に入れて溶かす。

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5。洗濯ソーダとホウ砂を準備。

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6。鍋内の溶けた洗濯石鹸に加える。

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7。ゆっくりスプーンでかき混ぜる(3−5分ほど)。

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8。鍋の中身を全部バケツに入れる。

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9。18リッターの湯(熱湯でなくてもいい)をバケツに足す。

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10。バケツの上までお湯で一杯にする。

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11。蓋をかぶせる。

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12。このまま24時間待つと、洗濯石鹸がゼリー状態になり、出来上がり。

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これでどのくらいもつかというと、

一回の洗濯に1カップ使い、週に4回洗濯機を回すとして、

家族3人分で6ヶ月もつ!

 

かかった費用は

驚異の

$2.50! 

つまり、6ヶ月分の洗濯石鹸代は273円!

 

どう?

こんな安い洗濯石鹸は世の中にないはず。

安くてエコでいうことないでしょ?

 

 

アメリカの舅の経済観念のすごさ

 

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(出典:https://www.forbes.com/sites/financialfinesse/2019/08/06/3-ways-to-invest-for-financial-independence/#78cccb446412

では、わがやの節約度に値するレベルはというと・・・

Thrifty とFrugalがおそらく値する。

日本語では「質素」がふさわしい。

 

夫もわたしの職場でもこんな風に生活している人は誰もいない。

おそらく彼らから見ると我が家はCheapskate(けちん坊)なのだろう。

 

実はこういうケチ哲学は夫から学んだ。

夫には頭の先からつま先まで、このケチ精神が染み付いているのだ。

と言っても夫の父親ほどではないのだが。

 

舅はケチのケチのそのまたケチを行く人だった。

要するにケチのプロである。

それが度を越すことも多々あり、周りの人をイラつかせていた。

わたしもこういう舅も見て、

姑がかわいそうに!

最低!

とか言っていた。

 

でも物事は全て二面性を持っているというではないか。

舅の経済観念はすごい!

 

彼は典型的な大家族大貧乏家庭の出身だった。

家族はもともと貧乏だったのに、大恐慌が訪れますます貧乏になってしまった。

そんな環境だったため、自立精神と経済観念がいち早く植えつけられた。

舅の姉の日記には「クリスマスだけどサンタは我が家には来ないって知っている」

と記されていた(泣けてくる・・・)。

それほど貧乏だったので家族全員が一致協力していて、わがままをいう子供などいなかった。

「こんなうちに生まれて来たくなかった」などという子供も一人たりともいなかった。

「神様のお計らい」によりこの家に生まれて来たわけだから、自分の置かれた環境で一生懸命頑張るという姿勢だったようだ。

舅もそんな子供の一人だった。

 

どんな人にも優れた面があるというように、この経済観念に関しては、身近な人で彼の右に出る人は未だかつてお目にかかったことはないと言っても過言ではない。

 

舅は高校生時代を通してパン屋でアルバイトをしていた。

そのお金で

なんと!

17歳という若さで自分の家を買った!

 

そしてその家の価値が上がるのを見計らって丁度いい時期に売ることにした。

その後その不動産の売り上げを自分の専門学校の学費などに当てた。

 

学問が得意でなかった彼は、(絶対食いっぱぐれない)パン屋になることにした、と言っても経営者ではない。

少ないお給料を切り詰め、一生涯、預金と投資に費やした。

二度目の家は自分の手で建てた。その際、銀行から借りたお金はゼロ。

その後も借金はゼロ。

お金を貯めて(最低)必需品を買い、壊れたら全て自分で修復した。

流行などとは程遠い生活を余儀なくし、実際に、そういう一時的で周りの人が皆飛びつきそうなホットな製品を追い求めることを馬鹿にしていた。

ほころびた服を着るというようなことはなかったが、家の中にも立派なものは何もなく、(もしものために)なんでも取っておくので、結構ゴミ屋敷家していた。

誰がみてもどうしようもない「貧乏男」そのものに見えた。

だから、当然こんな人に財産があるなどと思う人はどこを探してもいなかった。

 

だが、

彼は億万長者として市民の大多数より早く退職した。

 

ここまで上り詰めるには並大抵の意志と頑固さがないとできない。当然家族は迷惑と思ったこともたくさんあっただろう(と聞いている)。

ただ、それがいいか悪いかは別として、彼から学ぶことはたくさんあるように感じている。

 

かと言って我が家が彼の模範に完全に従ったかというとそれも違う。

若い時は「やりすぎじゃない」と、怪訝な顔をしていた。

それが今では、「グランパはすごい!」と尊敬されるまでとなった。

 (アメリカでは本物の金持ちこそ質素!と言われている)

 天国にいる舅がこれを聞いて喜んでくれているかな?

 

ちなみに、舅の家族は子供の数がなんと

8人!

 

男性5人で女性が3人だった。

男性は全員自力で学校に行った。そのうち二人は修士号を取り、二人は学士号を取り、二人が専門学校を出ている。一人は公認会計士で会社経営者。一人は大学教授。一人は高校教師。最後の二人はパン職人として就職していた。皆自分の家を持ち、家族を持ち、福祉にお世話になったことはない。全員退職しているが、退職金は十分にあるようだ。沢山の孫に囲まれて幸せそうである。

 

こんな家族のところにお嫁入りした私は、結局すっかり洗脳されてしまったようだ。

それだけではない

質素節約を結構楽しんでやっている。

なぜならこれはかなり頭を使うし、クリエイテイビテイが必要とされるからだ。

 

だから。

節約は美徳。

節約は賢明。

ついでケチを生きる事はすごーく楽しい!

 

と大声で世界に向かって叫びたい。

是非おすすめ。

 

 

 

 

あなたのケチ度はどのくらい?

 

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(出典:http://ccsnl.ca/2017/06/01/am-i-frugal-or-a-cheapskate/

シンプルライフの一種に節約が入る。

では節約とはなんであろうか?

 

経済観念は人によって異なる。

つまりどの段階が使いすぎで、ケチすぎるかの尺度は人によって違うのである。

またどんなに散財家でも、自分はどちらかというと倹約家の家に入ると自称する人もいる。

だから明確に経済観念を定義付することは難しいように見受けられる。

 

よって、これをざっくりだが段階別定義付けをしてみたい。

一番上が節約のプロで一番下が経済観念ゼロのレベル。

下に行くに従って危険度が増す。

だけど、上も下も周りの人をイラつかせる可能性がヒジョーに高い。

 

さあ、皆さんの経済観念がどのレベルにあるか!

見てみよう!

お楽しみ~~~。

 

1. Stingy:しみったれ、せこい。

特徴:お金に対して寛大でない。気前もメッチャ悪い。他の人におごったっり、贈り物をしたりなど、まずあり得ない。他の人を食事に呼んだりもしない。困っている人も助けない。「金がすべて!」ケチな金の亡者。デイケンズのクリスマスキャロルに登場するスクージがこれに当たる。

 

2. Cheapskate:けちん坊。

(Cheap:品質は無視してとにかく安いもの重視)

目的なしで節約するが貯めるためにケチになる人。

特徴:品質はどうでもよく、ひたすら安ければいいという考えの持ち主。安いかどうかだけが決断の鍵。持ち物が壊れても買い換えない。道具箱にはガムテープを欠かさない。公共でズボンの後ろに穴が開いていても平気ではき続ける。どうせ新しいものを買ってもいずれは穴が開くから。カッコつけは無し。人の目などどうでも良い。

 

3. Thrifty: 節約倹約家、やりくり上手、質素。

frugal に似ている。違いは、時間をかけて物を修復したり再利用したり作ったりすることをいとわない人。そういう活動を楽しめる人。Frugalな人より修復・生産に費やす時間を無駄だと思っていない人。

 

4. Frugality master:つましい倹約家。

(Frugal: 貯蓄の目的で節約している人。その金額の範囲で最高の価値の物を探している。)

特徴:何か新しいものに散財することは殆ど皆無。現在所有するもので済ませる。アップグレードは正当化できない。ドッグフードの袋の底にあるさいごの何粒かも無駄にしない。防止維持と買い替え代を比べ、情報を得て賢い決断に臨む。借金はゼロ。散財より貯金に重点を置いている。

 

5. Thoughtful Splurger:賢い散財家。

お金より経験を重要視している。海外旅行や新しいレストランの開拓などへの出費をいとわない。自分の情熱を傾けているものやそれに付随する経験を決して諦めることはない。

特徴:自分が大切に思っているものや使用度の高いものに対してはお金より品質を重要視していて、より高い金額を払うのをいとわない。借金はないか、借金がゼロになる日がいつであるかきちんと把握している。時々ある(正当化している)散財以外は、経済的な面をしっかりとハンドルしている。

 

6. Frugal-Ish:節約っぽい。

自分にはそんな所で買うお金などないのに、ある特定の店で常に買うと決めている。借金のリスクを理解していて一刻も早く返すようには努力はしている。

特徴:買い物の予算を10%-15%だけ上回るだけなら、これくらいの犠牲は払っても価値があると思っている。予算はその都度調整するが、この割合の上を行くことはあまりない(それでも高い店で買う。)

 

7. The tweener:真ん中レベル。

節約家ではないが、収入の範囲内の出費に抑えている。お金に関する決断に対して多くの時間をかけない。しかし、何が最も賢明でない借金(クレジットカード)であるかはよく理解している。

パニックに陥らずに毎月支払わないないといけない請求額は払うことができているが、緊急の場合の備えはない。

 

8.Forced Frugality:強制節約(節約せざるを得なくて節約する)。

現金が足らなくなるので給料日近くなるといきなり節約家に変身する。または経済的に大変な月だったからとか、住居費が高くなって大変になったからとか、理由は色々。

特徴:ドッグフードを買わずに飼い犬と食事を共にする(同じものを食べる)。「家計は火の車」のためよくパニックに襲われる。家計は2週間ごとに計画されるが長期にわたる計画はない。

 

9.Balling in Debt: 借金で贅沢な暮らしをする。

家計、特に出費に対して殆ど何も考えていない。出費の方が収入より高いが、かと言って使っているお金が幸福度に貢献しているわけではない。

特徴:クレジットカードの借金はごく普通のこと。月々の支払は最低金額。金額より質を重要視するが、買っても使うとは限らない。そういうことは重要ではないと考えている。「手に入れる為に手に入れる」観念を持つ。

 

さあ、結果は如何なるもの。

 

まさかあなたは一番上?

それとも一番下?

一番下なら命取りだよ〜〜〜。

 

でもこんな(一番下の)経済観念ゼロの人は実はアメリカにはかなりいる。

 

それを思うと

 

アメリカ経済って恐怖!

ニセ経済!

 

と、思わざるを得ないのは

きっとわたしだけでないに違いない。

紅葉田舎道での散歩セラピー:心が重く感じる時

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家の前の道。西方面。今日は晴れ。でも晴れの日もこれからどんどん減っていく。


ミシガンはもう既に紅葉最前線。衣替えはほぼ終わりが近づいている。

艶やかな葉が全て地面に落ち雪が舞い降りる前の最後の舞台が目の前で繰り広げられているのだ。フィナーレの開始だ。

ちょっとピリッとする空気の中をジョギングする人や散歩をする人もちらほら見受けられる。

家々の煙突の煙も天に向かったかと思ったがいつのまにか空の中に消えてしまった。

 

この道の真ん中に立ち止まってぐるっと一回りしてみる。

言葉が消えた。

思考が止まった。

Heavenly.

 

この道はわたしの大好きな道だ。

今の家に引っ越すことを選んだのもこの道に魅せられたからだ。

 

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家の前の道。夏はこんな感じ。

重たい気持ちを抱えて何度この道を歩いたことだろうか。

ただただ歩いた。

黙って。

一人で。

涙が溢れて止まらない時も何度あっただろうか。

 

人には、わたしには悩み事などなさそうだと見えるらしい。

そんなことはない。

当然ある。(あったりまえです!)

どうにもならないことをどうにかしようと悩んでいるからストレスを感じる羽目になる。そして悪戦苦闘の後、やっぱり自分の力ではどうにもならないことがわかると、悔しさと現状への不満から涙が出てくる。

そしてその悲しんでいる自分の心に気づくや否や、ますますストレスを感じる。

悪循環なのだ。

 

わたしのストレスとは、つまりいつも子供のことだ。

自分の子供といえど、結局自分とは異なり、別の個性を持った別の人格を備えた人なのだ。だから親が何を期待しようとも心配しようとも、彼らは自分の思ったように生きる。失敗も多く。それを背景からただ見守っていることの辛いことよ。

子供はわたしの所有物ではないのだ。借り物の存在なのだ。

それでなくてはいけない。そしてそれが正しいことと分かってはいる。

ただ、母の心はそう簡単に「はいそうですか」とは言えないのだ。

 

わたしが子供のことを思わない日が今までに1日たりともあっただろうか。

考えると胸が詰まり。そして目頭が熱くなってくるのだ。

そんな飽和状態の心が更にぎゅうぎゅう詰めになると破裂寸前となる。

(もう耐えられな〜〜〜〜い!)

そんな時、わたしは外に出る。

エコセラピーの一種である散歩セラピーに出かける。

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東方面。毎日音楽を聞きながらこの道を通り仕事に向かう。

歩きながら、地面に当たる自分の足の裏の感触に心を集中し、

パラパラと舞い落ちてくる枯葉に身を任せる。

頬に当たる風の息。

赤くほてった自分の顔とまともな思考状態ではないおつむを一気に冷やしてくれる。

 

足が意識しないでも勝手に動くようになったら、

何にも感じなくなったら、

胸の鼓動も正常化したら、

さあやっと自分の心に向き合える。

素直な自分になれる。

 

そして人生は思い通りにできないことがあることを自然は教えてくれる。

ちっぽけな自分のちっぽけな問題を忘れさせてくれるかのような大きな自然の愛に屈服し、少しは心が軽くなったように感じられる。

例え自分の思い通りにならなくとも立ち向かう勇気を与えてくれる。

けれでも、立ち向かわなくてもいいと感じる時も多い。

もう考えることが心から消えてしまったからだ。

 

心がいい意味で真っ白になると、その空いたスペースにインスピレーションが入り込む確率が高くなる。往々にして、自分の考えで頭が一杯、心が一杯の時は、何にもいいアイデアが浮かばないものだ。一旦、全ての想いを捨てて、空っぽになって初めていい思いつきが出る。

空っぽになり、「天にお任せ」気分になると、なんでも自分で抱え込まなくともいい、解決しなくていいんだ、と認識できる。そして解決しようと頑張っていない時にふと名案が浮かんだりというのもよくある話だ。

ストレスの真っ最中には普通は頭が正常に働かないものだ。それは体が(命の危険に差し障りのある)ストレスをやっつけるためのホルモンを出していて、心臓は必死になって鼓動の回復に携わっている。その期間は、体はそれだけに集中していて頭にエネルギーも血液もよく届かない。だからこんな時は一旦問題から離れ、頭を冷やすことがいい。心を空っぽにすることがいい。

その方法例として、散歩やクラフトなどの繰り返し的要素を持つ活動が効く。

つまり言葉を介入しない活動に従事することがいい。言葉が入ってくると人はすぐに考え事を始め、その結果、こうでもないああでもない、と得意の「悩み」で自己を苦しませるからだ。

心を穏やかにする方法はたくさんあり人それぞれ一番効く方法を選択すればよく、わたしの場合は、散歩などの自然に触れることが挙げられる。

つまりエコセラピーであり、散歩セラピー。

これが今のところとってもいい感じだ。

 

心のつかえが取れた。

真っ黒になっていたわたしの体のオーラも洗われた。

涙も乾いた。

あの風の仕業に違いない。

 

 

 

 

 

日本のかぼちゃとは似ても似つかないが・・・

我が家の菜園にかぼちゃができた。

でも種を植えたわけではない。

堆肥箱にかぼちゃの種が入っていたらしく、土に混じって菜園にばらまかれたかららしい。

つまり努力なしで勝手に生えてきたものだから、天からの恵み!にちがいない。

 

ところでこのアメリカのかぼちゃ

オレンジ色でサイズも

日本の従兄弟とは似ても似つかない代物!

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畑にできた直径40センチのかぼちゃ!

 

味はというと・・

水っぽくて・・

めちゃくちゃ・・

 

まず〜い!

 

一体全体これのどこがかぼちゃなの??

とクレームを付けたい!

 

だから主にカービングしハロウィーンの飾り用に使われるか、

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Jack-o' lanterns

(出典:https://history.com/topics/halloween/jack-olantern-history)

 

感謝祭のパンプキンパイに変身する。

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(出典:https://www.landolakes.com/recipe/19055/maple-pecan-pumpkin-pie/)

ただパンプキンパイは、クローブやシナモンや砂糖や卵やミルクをどっぷり入れるので、かぼちゃの味が果たしてどこに残っているかは定かではない。

 

多分香りだけ。

 

我が家では子供達が幼い時は、

かぼちゃを入れたスープ、パン、ホットケーキ、クッキーなどを作った覚えがある。

今でも続けているのは種をローストすることで、これは虫の駆除に効くらしいので、実行している。

 

かぼちゃといえば、天ぷらが思い浮かぶ。

それで挑戦してみたが、

やっぱりいまいち。

このかぼちゃではダメなのだ。

 

よって、望郷の念が強いわたしは、どうしても日本の栗カボチャが食べたく色々探してみることにした。

それでついに見つかった!

 

日本のあの美味しいかぼちゃに近いものは、ここではウィンタースクワッシュと呼ばれており、特にバターナッツスクワッシュとエイコーン(どんぐり)スクワッシュが甘くて結構ホクホクしていて日本のかぼちゃに近い味がする(それでもやっぱり程遠い)。

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バターナッツスクワッシュ

 

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エイコーンスクワッシュ

                       
問題は、どれも皮が以上に硬いこと!

なので、切るのが一苦労なので、夫に切ってもらっている。

実はこういう力仕事は、台所仕事でも男性の仕事とみなされていて、一般的にアメリカの男性は、力仕事をお願いすると喜んでやってくれる。

なんでも、「か弱い女性を助ける力がある自分はかっこいい」と思っているらしい。

 

もうすぐハロウィーンで、子供達がキャンディをもらいにコスチュームを身につけ家々を回るのだが、子供達に家に来てもらいたい場合は玄関のところにハロウィーンの飾り付けをしないといけない。

飾り付けがなければ「ドアを叩いてはいけない」ことを意味する。

もちろんこんな暗黙の了解を子供達もじゅうじゅう承知している。

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玄関の周りのポーチがハロウィーンテーマで飾り付けられている。

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出典:https://www.joyusgarden.com/spooky-halloween-decoration-outdoors

庭もハロウィーンテーマで統一して、大人も子供もお化け屋敷ごっこを楽しむのが習わしだ。コスチュームは職場や学校にも来ていき、誰が一番すごいかとコンテストも繰り広げられている。

 

アメリカは犯罪が多いので中学生未満は親が同伴するシステムになっており、友達の家以外には行かせないようにしているケースも数多くある。

何年も前に、日本人の留学生がハロウイーンの夜にある家のドアを叩いて殺されたケースがあった。

もちろんこんな田舎の話ではなく大都会ニューヨークだが。

十分ありうる話だ。

 

ハロウィーンでなくとも、日本のように子供が一人でバスや電車に乗ってあちこちに行くというのもここでは全く考えられない。もし子供がそれをするなら家に警察がやってきて母親は逮捕!ということになりかねないからだ!理由は育児放棄と監督不行き届きだそうだ。

 

そういえば、日本では「かぼちゃ頭」といえば「空っぽの頭」を意味するが、アメリカでは、赤ん坊を指して「パンプキン」と呼ぶことが多い。

姑が産まれたばかりのわたしの長男を指して「パンプキン」と呼んでいた。

わたしは思わずムッとして、「やめてくれ。わたしの子供はかぼちゃじゃない!」と姑に抗議した思い出がある。

人間の子供をかぼちゃ扱いするなんて!なんと失礼な!というのがわたしの思いだった。でもアメリカでは可愛くてそう呼ぶらしい。

たとえ悪気があってそう呼ぶわけではなくとも、わたしは未だかつてどの子供も「かぼちゃ」とはとても呼べない。

何年住んでも、やっぱり心はずっと日本人だからかも。

 

さてこのかぼちゃ、今年はどうやって食べようか?

それが問題だ。

 

国際結婚って大変?

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出典:https://www.wayfm.com/content/carlos-joy/the-best-marriage-advice-happens-to-be-the-least-romantic/

結婚のシンプル化

西洋人の愛情表現というのは、日本人には「ちょっと大げさでは?」と見えることも多い。もちろん、つきあっているときはこういう「ウキウキ感」は、むしろ歓迎だった。

でも結婚すると、やっぱりこういう「濃い」愛情表現が面倒になる。

だからこういう文化に染まることが出来ない人にとっては、国際結婚はより難しくなるかもしれない(個人的にはこれが一番感じる文化の差で、他はあまり感じない)

 

なぜ、彼らは愛情をおもむろに表現するか。最初の理由は単に文化だから。

まず彼らの文化には「察する」とかいうのがあまりない。つまり「言わなくともわかっているだろう」というのはないのだ。

西洋の文化では「言わなければわからない」「態度で示さなければわからない」という考えが常識なのである。

だから愛情も、何もしなくとも何も言わなくとも「わかっているはず」は通用しない。

だから態度ではっきりと意思表示をしないといけない。そう毎日。

もう一つの理由は最初の理由の結果でもあるが、

それは「ドキドキウキウキ気分」、つまり「恋心」を続かせるためだ。

単調になりがちな結婚生活にスパイスを利かせることが結婚の長続きの鍵だと彼らは知っている。

それは植物を育てることと似ている。

植物には太陽や肥料や水が必要で、これをさぼるとあっという間に枯れてしまう。

愛情もこれと同じように常に養う必要があり、さぼると枯れてしまうのだ。

気持ちがどんどん離れてしまう。

マンネリ化してしまうのだ。

(アメリカでではマンネリ化は離婚への危険信号なのだ。)

 

あら、そんなところに花なんかあったかしら?

すっかり忘れてたわ~。

なんて、

そんな感じ。

 

それでわが家はどうかというと。

 

う~ん。

時々夫は寂しそうな顔をしているなあ。

 

でも特に相手も何をしてくれるわけでもないし。

だいたい自分の父親が女性を大切にするタイプからは程遠く、ほとんどパワハラだったので、レデイ―・ファーストなどの馴染みのないことは結婚直後さっさと消えた。珍しく父親が妻のためにドアを開けてくれるとか椅子をひいてくれるとかしないタイプなので夫もしない。ついでに日本人妻から期待されてもいないのでやらないことにしたらしい。

心は優しい人だが素振りは極めてニュートラルな彼。

 

でも喧嘩をするわけでもない。

かといって歩み寄るわけでもない。

互いの視界にある範囲で平行線をたどっている感じだ。

ただわたしたちには共通の関心事があるので、話す話題には困らない。

夫婦というよりは同志かもしれない。

どちらかというと一致団結した同志かもしれない。

 

ウキウキするようなことはないが、一生連れ添うという覚悟ではいる。

だからなるべく言い争いは避け、互いに平和に対応するようにしている。

それでもいいかな、と思っている。

指輪も花束もいらない(バレンタインに毎年花を買ってくれるが)。

特に一緒に行きたいところもないし。

いや~、実にマンネリ化してます。

これをアメリカの友人に言うとほとんどが怪訝な顔をされるけど。

それがどうしたっていうの!

 

そういえばこの8月は結婚30周年だった。

何かイベントを企画しようと思ったが、ちょうどその頃、夫は職場で大きな訴訟問題に対応していて、それどころではなかった。加えて私は花粉症が悪化して外に出かけられる状態ではなかった。

よってキャンセル。

当然キャンセルしても両者から文句も愚痴もこぼれていない。

 

でもこんなのはアメリカで絶対ない!

30周年記念をほおりだしたら、それこそ離婚になってもおかしくはない。

 

でもうちはこれでもいいのだ。と開き直っている。

シンプルライフを生きているからだ。

人間関係もシンプル化が大切。

結婚関係もシンプル化。

それが「覚悟」の結婚に必要かと思う。

 

長続きさせるコツはどこの国でも同じ

結婚の定義が「どんなことがあっても一生連れ添う」ことなら、どうやって「一生」なんて長いあいだ、(比較的)幸せに連れ添れるのだろうか。

 

30年の結婚生活を通してわたしが学んだことはこんなことだ。

 

まず最も大切な点とは、

伴侶といえども別の人格を持った人間で、その人の生き方を尊重しないといけない、

ということ。

 

それは時として、ヒジョーに難しい。

で、ほとんどの場合は・・・はなはだ不可能!

 

だが、他の人の人生に干渉することこそ人生を複雑化させ、ストレス増加につながらないではないだろうか。

考えてもみていただきたい。

美しいはずの家族関係というのは、実は世の中で一番複雑でドロドロしていて、醜悪状態になる可能性が高い。

それは国際政治問題とかなり類似しているといっても過言ではないのでは。

つまり、自分の陣地を離れ、隣国に勝手に侵入し、色々余計な事をしたり、失礼な意見を言ったりすれば無論紛争に発展する。家庭も同じでは?

 

自分自身を変えることだってかなり難しい。

それなら(伴侶を含む)他人を変えることなど絶対無理だし、そんなことを企んでも、がっかりするだけ。いがみ合いになるだけ。

 

だから、しない。負け戦など。

と、いつも心に言い聞かせている。

 

なぜなら、人生の目的の一つは、自分自身を向上させることにあるのだから。

周りの人もそれぞれ勝手に自己をより高める努力をしたらいいのだと思う。

それじゃあ、努力をしたくない人は?

それはそれでその人の自由意志であるから口出しは無用。

口を挟むなら、必ずや嫌な顔をされるのが見えている。

つまりそれは本人に完全責任を取らせるということを意味している。

 

私には夫に対する気に入らないところなど真砂の数ほどある。

例えば体重。

 

彼はダイエットと称して夕食を摂らない。

でもなぜか木の年輪のようにどんどん膨れていく。

毎年ウエストが確実に太くなっているのは誰が見ても顕著だ。

はっきり言って、生半可のメタボ体形ではないよ。

はっきり言って見苦しい・・・。

 

娘は「ダデは絶対に外で“こそ食い”をしているに違いない」と真っ向から疑ってかかっていた。

わたしはわたしで、「でも昼間はチキンサラダだけって言ってるわよ」なんて素直に夫を信じようとした。

だが、娘が正しいと分かるまでにそう時間はかからなかった。

さてはドーナツでもむさぼっているに違いない。

やっぱりどう見ても娘が正しい!

 

実は夫の体重は私の倍以上ある。

運動するように勧めたけれど、(重たいので)膝が痛い、痛いから走れない、とか彼の口から出るのはそういう言い訳だけ。

地下に体操器具があるが使っているのを見たこともない。おなかを引っ込める簡単な体操とかヨガなんかも教えてあげたけど、そもそもやる気なんてまったくないし、やっても持続できない。

 

この状態が続けば、老後に階段から落ちる可能性は高く、歩行困難にもなるかもしれない、と心配したわたしは、

「あなたを支えないといけないのはわたしであって、でも自分の体重の倍以上ある人を支えてあげることは無理。最悪の場合は二人とも一緒に階段から転がり落ちて病院行きなんだから、どうにかして!」

と脅してみたが、

効き目はゼロ。

 

何年か前は、いかにも心から心配しているかの様に、

「あなたがいなくなったら生きていけないの」

なんて泣きまねもしてみたが・・・

 

もう止めた。

諦めたのである。

 

それで本人がいいならいいんじゃない?

 

あなたが将来糖尿病にかかり、高血圧になり、コレステロールも急上し心臓病になり、歩けなくなっても、救ってあげれません。悪いけど。

それからその巨体を支えるなんて私には到底無理な話です。

 

だいたいが夫の家族もみなああいう体形に究極的にはなるみたいで、運命なのでしょう。そういう遺伝子ならやっぱり不可能なのでしょう。

あ~やだやだ。他の人の人生に口出しなんてして!バッカらしい!

そうそうそのままでいいよ。クマちゃんみたいでメッチャ可愛いよ。

うんうん。ほんと。

 

その後は、体重のことが話題に上ることはなくなった。

ので、私が夫に対して嫌な顔をすることもぐっと減った。

よって、ストレスが半減した!

やった~!

 

よくよく思うが、わたしの欠点は夫の欠点よりも遥かに多いに違いない。でも夫も諦めたのか何も言わない。だから私ももう言わないのだ。

それに、もしそういう風にできれば、生きていくのがよっぽど楽になるのではないかと思う。

個人的な事に関しては、自由意志を尊ぶという策が平和への直行便だと思う。

 

ではいつもこのやり方でうまくいくかというと、そうでもない。

もし関係が平行線気味でも結婚は継続可能と思うが、根本的な経済観や結婚観や人生観が同じでないと厳しい。

互いの性格が違うのはOK. 

趣味や関心ごとが違うのもOK. 

(体形もまあいいかな)

でも経済観と結婚観と人生観が南極と北極ほど離れていたらこれはかなり危険と言える。

 

摩擦を起こしやすい分野は、経済観念が挙げられる。これはかなり大きい。

そしてそのコアと言える人生観が全く違うとこれもすれ違いの原因となる。

結婚に何を求めているかということにおいても、意見の食い違いが顕著なら✖。

つまり、共同で決断しないといけない分野は、共通点が多ければ多いほどいいということになる。

 

従って、この部分がしっかり一致していれば結婚は継続が可能で、それも割といい結婚になる可能性が高い。

この部分に限っては、わたしたち夫婦“なんとなく”一致している。だから30年も連れ添うことができたのかもしれない。

できるなら、もうちょっと欲張って卒寿*を目指してまっしぐら!なんて思っている。

(でも~・・・メタボじゃあ・・・卒寿はちょっと無理があるかしら?)

 

*卒寿とは90歳のお祝い。

 

 

 

 

アメリカ人の結婚観

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(出典:https://www.marriage.com/advice/romance/how-can-i-bring-romance-back-into-my-marriage/

友人のシャーナが言っていた。

「結婚は恋愛とは別物よ。結婚とは覚悟を意味するのよ。(The marriage is nothing to do with falling in love, but all about commitment.)」と。

20世紀中期から現在に至るまで、先進国ではほとんどの人が大恋愛を経過して最終的に結婚に至るという夢物語の主人公になることを望んでいる。日本ではアラフォーやアラフィフの人でさえも、そんな情熱的な恋愛を夢見て婚活に励んでいるとか。それはあたかも、結婚式が夢のような恋愛のサミットで伴侶は永遠に王子様やお姫様のままで、その恋愛感情も永遠に続くと信じて疑わない錯覚なのだ。

だが当然現実は異なる。

 

結婚というのはどのような理由で誰と結婚しようともどの時代のどの文化においても難しいものなのだ。

とてつもなくなが~い「我慢大会」のようなものだ。

 

だから結婚とはつまり「どんなことがあっても一生連れ添う」という(ただの)覚悟に他ならない。「腹をくくる」ということ。

夢のような恋愛とは異なる。

そしてそれは(憧れている人には大変申し訳ないが)ここアメリカでも同じである。

 

けれども、アメリでは今でもこの「恋」という気持ちを非常に重要視する人が多い。

つまり「恋心」を継続させるためには、たくさんの犠牲を払うことをいとわない。

アメリカでは、「恋心」つまり胸が熱くなるような気持ちがなくなると、「もう冷めた」と言い、離婚となるケースも多々見られる。現在アメリカの離婚率は50%だが、年によって上がることもあるが下がることは今のところ見られない。わたしの職場でも分かっている限りで25%は離婚組だが、実際はもっといるかもしれない。

 

確かに、理想的には結婚式からお葬式まで伴侶がずっと好きで好きでたまらない、というのが理想だ。でもこういうケースは普通はあり得ない。

一生連れ添う覚悟があっても終局を迎えるケースは多く、その確固たる決断を常に新たにするために知恵を絞らないといけない。(離婚は経済を圧迫するし避けられるなら避けたほうが賢い)

だから、毎日伴侶と恋に陥る経験を「わざと」設定することも多い。

それは日常をいかに非日常化するかということを意味する。

 

要するに愛情表現豊かに振る舞わないといけない。

それは日本人妻からすると、大変「めんどうくさい」ことでもある。

 

例えば、手などつなぎたくなくとも、手をつなぐ、とか。

毎朝毎晩、挨拶がわりのキスをする、とか。

さりげなく抱きしめる、とか。

理由がなくとも妻に貢物をあげて不意をつかせる、とか。

相手のいいところを頻繁に褒める、とか。

例え心にも思ってなくとも、伴侶がどんなにセクシーで、世界で一番魅力的だと言う、とか。

つまり、

互いにアッと言わせるようなことをして

ドキッとさせ、

感動の瞬間というのを作らないといけない。

毎日「愛している」とかの蜜のような言葉を発するのも常識。

そういう努力を西洋人は喜んでする傾向がある。

やっぱり、あの数々の映画のシーンは実際に行われていることなのである(例外は常にありますが)。

 

美味しい夕食を準備したり、家を綺麗にするとか、子供の面倒をしっかり見て家庭を守るなどが、日本人妻の愛情表現かもしれないが、それでは足らないのだ。

 

日本で称賛される甲斐甲斐しく「ヌカ味噌臭い」良妻賢母はここでは誉め言葉にならない。

仕事ばかりしていて最終電車で帰宅し、妻に「亭主元気で留守がいい」なんて言われている夫も、ここでは全く評価されない。

 

妻はセクシーで魅力的で、知的で会話上手で、精神的に自立していること。夫は、社会的地位が高く、豪邸と豪華な調度品を妻にあげれるほどの経済力を持ち、お洒落が上手で色男で美男子が理想とされる。仕事を終えたら理由がなくとも薔薇の花束を抱え玄関に登場。そこで目をとろ~んとさせて妻に膝まずく。その足で台所に直行して夕食だっておまかせ!夕食時も素敵な会話で妻を飽きさせない。その後は音楽でダンス。ロマンチストで口調はソフト、マナーは紳士で乱暴さの微塵も見せない。週末だって家事に子育てに参加が当然。これくらいじゃあないと結婚を続けるのは困難だ。当然メタボなんて持ってのほか。(理想を生きようとする国民性の表れです。)

日本人のように「結婚はただの生活だ!」なんてロマンのないことを口走るのは許されないのです。

ここで結婚を続けるには、並々ならぬ努力を重ねないといけないのだ。

 

では

果たして

現実的にみて、

誰がこれを実行できるか?

 

だから離婚が多い。

 

(次回に続く)

イラスト:MCL